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部屋と魔晄炉と私:FF7リメイク

説明不要の不朽の名作、ファイナルファンタジー7をプレイしたのは高校生の頃で、それはこの作品が発売されてからもう何年も後のことだった。なんなら、当時の最新タイトルだったファイナルファンタジー10をやった「後」のことである。最新ハードのPS2に、初代プレステ用のディスクを挿入して遊んでいた。懐かしい話だが、PS2には、今となっては世にも珍しい後方互換機能があったのである。PS2でPS1のソフトを遊ぶとちょっとだけ映像が綺麗になるみたいな話を聞いた覚えがあるが、全然実感できなかったことを思い出す。

そうして触れたFF7は、直前にやった10と同じぐらい面白くて、それはもう夜中まで起きてやったものだ。10の美麗な映像美を見た後だと、ポリゴン増し増しで描画された7のキャラクターはまるでレゴのようだったが、そんなものは面白さとはまるで関係がなかった。ディスクを何枚か入れ替え、映像が綺麗になってるのかどうかを気にすることすらなく、夜を通して遊んだ。もう、それはそれは面白かった。

 

 

で、実は、面白かったという以外の感想を、大して覚えていない。「面白かった」ということは凄くはっきり覚えているのだが、細部の展開とか風景が、今となってはどうもぼんやりしている。キャラクターのことはよく覚えているのだが、これは後に派生する映像作品とか、キングダムハーツにも出張ったりしていたから、記憶が更新され続けていたのだろう。

 

PS4FF7のリメイクが発売される。それは本編の前半部、ミッドガル脱出までを描くと、そんな発表されても、あああの街そんな名前だったっけくらいの感想だった。今思えば、10は非常に視覚的な作品で、物語と映像がすごく強烈に印象に残っているのだが、レゴブロックの7をその後にやってしまったことが失敗だったのかもしれない。

 

つまり自分にとって7は、知っているようで知らない何かなのである。これが結果的に良かった。PS4でプレイしたFF7リメイクの全ては新鮮で、同時に全てが懐かしかった。まるで、全く知らない作品に触れるような新しい面白さがあったし、同時に、昔懐かしいものに触れたような感慨もあった。

 

何より嬉しかったのは、1997年当時、初めてFF7に触れた人が覚えた感動に、やっと追いつけたような気がしたことだ。97年の人々が、最先端ハードであるプレイステーションを通じてこの世界に触れた時の感動。レゴブロックの向こう側に想像した煌びやかで、荒廃していて、激しくて静かな数多のドラマを、やっと目にすることができた気持ちになった。

これは一種の贅沢なタイムトラベルだ。

 

 

 

 

FF7リメイクは、物語、映像、キャラクター、音楽、戦闘、風景、そのどれを取っても、鬼気迫るような高品質だった(水増しクエストが多いとか横道によく逸れるとか言われていても正直そんなに気にならん。なぜなら原作を大して覚えていないから!)。

純粋に完結した一本の作品として非常によく出来ていて、FF7を知っている人も知らない人もきっとすごく楽しめる。間違いなくPS4を代表するタイトルに数えて良いと思うし、やり終わって、ああやって良かったと思えた作品だった。やり終わっての脊髄反射的な感想は「傑作!」の一言だった。

その辺のあれこれはいろんなところで好評を買うだろうから、ここではくどくどしく述べない。

 

 

ただ、凄く良かったところの感想を、記憶の意味も兼ねて書きたかった。舞台になる都市、ミッドガルについてである。

「過去の名作を現代に蘇らせる」というのは単純に、昔の言葉を綺麗に書き直すのとはわけが違って、現代の感性にちゃんと需要されるように作り直さなければいけない。その点をこのリメイクは凄くうまくやっていて、現代、というか現在という時間の上に広げられてこそ、輝く部分がいくつもある。特にミッドガルを中心とした世界観に、今改めて触れると、一種いびつなくらいの魅力がある。

 

 

改めて述べるまでもないかもしれないが一応。

FF7の物語は、「神羅カンパニー」と呼ばれる大企業が支配する企業城下町「ミッドガル」を舞台に幕をあける。この世界には「魔晄」と呼ばれる星由来のエネルギーがあり、神羅は「魔晄炉」という大型の発電所を使って星から魔晄をガンガン吸い上げ、ミッドガルに還元している。ミッドガルはその無尽蔵にも思えるエネルギーを用いて大いに繁栄しているのだが、実はこの都市は二段階層になっており、繁栄に浴しているのは文字通り「うわべ」、この階層の上部のみ。近代的な都市はプレートという土台の上に成り立っており、このプレートを支える下層は、もっぱらスラム街になっている。物語は、星を守るためにこの魔晄炉を爆破せんとするテロリスト、アバランチの視点から始まり、やがてはミッドガルの下層と上層を含む、都市全体を巻き込んだ騒乱へとなだれ込んでいく。

というのが、FF7本編「冒頭」のだいたい4、5時間ぐらいのところの話で、ここだけを切り取って、およそプレイ時間40時間前後の大ボリューム、アクションありスリルあり迫力のムービーあり、笑いあり涙ありの現代的なAAAタイトルに作り上げたわけだ。簡単に言えば「エヴァンゲリオン新劇場版:序」みたいな感じ。この試みだけでも天晴れだ。

 

 

が、それ以上に、この設定をそのまま現代に持ってくるところがもう冒険である。

97年当時で見ればそこまで神経質にもならなかっただろうし、なんなら改めてやって自分もやっと気付いたが、魔晄炉はどう見たって原子炉じみている。魔晄炉を爆破するという導入をみても、環境保護をお題目に唱えるとは言え、立派な過激派武装テロリスト集団の物語。星の力たる魔晄を原子力とみれば、原子力発電から得た電力で繁栄するこの舞台、機械的・無機質・享楽的・退廃的みたいな言葉で飾り立ててもなお足りない都市ミッドガルの姿は一層禍々しく思えるし、スラム街を下層、近代化した都市を上層においたその構造はこれ以上ないくらいに格差社会を象徴している。更にいえば、中途でこの上層部がこともあろうに落下して、下層の住民の生活と日常は壊滅的な打撃を受けるのだが、文字通り「空が落ちてくる」この展開は、まさに天変地異。災害を意識したような描写になっていて、突然に破壊された日常の描写にはどうしても、97年以降の様々な痛ましい現実の数々を重ねずにはいられない。

ミッドガルの人々は様々な災害じみた事件に怯え、これから先の日常の行く末を案じている。

それでも明日は仕事があるし、生きなければならない。

 

 

この辺りの設定や物語の筋は、当時の原作と殆ど変わっていないが、現代のこのご時世に持ってきたが故に、「ファンタジー」というよりはむしろ「アイロニー」みたいになっている。この歪さは、何かこうプレイしていて、娯楽として割り切るよりも先に、うっと胸に詰まるものを覚えてしまう。なんだか妙な怖さがある。ああなんか、現実的だなあと。初めてやった時は、こんな風には思いもしなかったんだけれども。

 

 

多分この辺の「ファンタジーが現実に近づいてしまった」感は、作り手も自覚的だったんじゃないかと思う。

例えば、神羅カンパニーの描き方。非常に簡素な言葉で語れば神羅は悪の組織なのだが、そういう風にシンプルに語ることはしていない。この辺り、当時の原作にもそういう描写はあったと思うが、リテイク版はよりディテールが細かい感じがする。

つまり、神羅カンパニーは一「企業」であると。そこにはそこで働く従業員がおり、上司がおり部下がおり、それぞれの生活があり、そして彼らは、社会人として誇りを持って、ミッドガルの変わらない日常を、都市の人々の平和な生活を守るために、静かな市民的な戦いを日々演じている。つまり仕事をがんばっている。

そして彼らにも帰るべき家がある。日常がある。その点で見れば神羅もスラムの住人も変わらない。仕事があり、家があり、家族があり、日々の生活がある。彼らからすれば、突然やってきて生活の源を爆破しようとするテロリストの方こそが過激で攻撃的な悪の組織なんである。

 

 

神羅を統べる社長でさえ、主人公一味に向かって「君らには魔晄炉なき後のビジョンはあるのか」「いずれ来たる星の破滅が今回避されたからといって、それで市民がついてくるのか」と、脱魔晄炉を目的とする彼らに強い言葉を突きつける。彼らは彼らで、たとえ偽善的であったとしても、安穏とした日常の守護者でもあるし、そこにはちゃんと相応の理念が垣間見えさえする。

 

 

翻ってアバランチの側も、本当にこの戦いは正しいのか、時折ふと悩んだりするわけである。何人もの人がこの戦いで傷ついてく様を見ているから。傷つける者を悪とするなら、ヒーローとされる側だって、そう言われて仕方がない。

この辺の関係性、正義と悪が危うい相似形になっているような描き方、今になって見ると妙に生々しい。どちらもすぱっと断罪できない、割り切れない苦味みたいなものがずっと残る。その質感は、フィクションというよりもリアルの方によく感じる。もしかしたら、これは単に自分が歳をとっただけかもしれないが。

 

 

そんな具合の生々しさやら何やらがあって、ミッドガルは、全然、遠い世界の知らない街に見えない。

なんだかまるで、他人事に感じられないのだ。そう、ミッドガルには紛れもなく「生活」があるし、たくさんの人生がある。

 

 

歩けばわかる。繁華街は華やかで美しく、しかしどこか雑然としていて、看板や街の光一つとっても、そこに行き交う人々の姿が浮かび上がって見える。下層にある埃まみれのスラムは雑然としているが力強く、人々が働き、飲み、食べ、談話し、笑い、そして眠る町としてどこまでも賑やかだ。

そして見上げれば、下層と上層を分かつ恐ろしく巨大なプレートの裏面が、まるでデススターの表層のように、毛細血管じみた無数のパイプやダクトに彩られて広がっている。空は素直に見る事ができない。プレート同士の隙間から、かろうじて空の切れ端が垣間見えて、そこから光が差し込んで来ていて、そういうのを見るために立ち止まっていると、道ゆく人々の会話が耳に入ってくる。曰く、あの魔晄炉爆破はアバランチがやったらしい、とんでもねえやつらだ、明日の仕事どうしよう、家族の安否が心配だ、云々。。ずっと喋っている。生きているみたいに。

走れば数秒で済む街を、ずっと歩いて回ってしまった。

 

 

グラフィックがゲームの全てではないが、そのグラフィックや、最先端の技術で組み立てられた演出のおかげで、本当にしばらく、ミッドガルで冒険していたような気にさせられる。そんなゲームだった。そして、ミッドガル、つまり危うい都市政治と、退廃的な都市景観と、確かな日常、平和な日常を望む人々が暮らす街は、TV画面の向こうではあっても、今たしかにこの時代、現実の世界に向けて、何か語りかけてくるような存在感があった。

 

 

この印象。面白いとか感動したとか以上に残る奇妙な感慨は、今この時にやっておいたから得られたような感じがする。

 

 

もともと明示されているものなのでネタバレというわけでもないと思うが、本作のラストは、ミッドガル脱出で終わる。主人公・クラウド達の行く先がどうなるか。これは次の作品で語られることになる。

ミッドガルの外は、草木の一本も生えない荒野だった。ミッドガルという制約された日常はそれはそれで地獄なのだが、その外側には、何もなかった。企業城下町の城壁を出て確かに自由を手にした一行だが、その自由には、目的はあっても宛先が何もなかった。

ただ、仲間がいるということだけが救いになっている。これからどこへ向かおうかと佇む彼らに、プレート越しではない空から雨が降ってくる。

 

 

ミッドガを脱した先、次の一歩はどうなるのか。

窓の外に魔晄炉が見える家を飛び出し、家族や友人を置いて、「これまでの世界」の外側に飛び出した時、何が始まるのか。

心細い荒野の感じが、妙に心に残ったのも、今この時、日常の在り方が変わりかけている今だからこそかもしれない。

 

 

分作の二作目が何年後かはわからない。「この先」をジリジリと待つ時間が続く。

その頃までに、我々の日常が少しでも好転して、新しいファンタジーをまた新鮮な気持ちで受け入れられたらいいなと思う。