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読書と映画と小説と、平熱的な日々のこと

2020年、読んでよかった本まとめ

例年同様わーっと羅列して、最後に5選。今年は色々読み散らかすというより、同じ作者の本を続けていくつも読む、ということが多かった年だった。あと、いいなと思った本が大体日常を描いている本だったのは、もしかしたら今年特有なんだろうか。もともと好きだったけど、もっと好きになったのかもしれない。

 

 

 

久生十蘭:魔都

 

狂騒、という言葉がぴったりくると感じた一冊。大晦日から新年にかけての東京を舞台に、殺人事件や失踪事件やらあらゆる類の事件が並行して起こりまくり、超個性的な登場人物たちがその解決に奔走する。こう書くとラノベみたいな筋書きだが書かれたのは戦前の1937年。しかも連載ものなので、読者の首が本から少しでも後ろにのけぞりそうになったタイミングで胸ぐらを掴んで引き戻す必要があるから、今読むと「無茶だろうそれは」と思うようなあらゆるどんでん返し、ハッタリ、こけおどしに満ちている。つまり、今の目線で見ると結構どうなのという疑問も起こるんだけれども、それでもノンストップで読みたくなるような疾走感が凄まじい。今読んでも古臭くならずに非常に魅力的な小説になってるのは、一本筋の通った硬質な文体と煌めくような美しい言葉の数々で、鼻白む暇もなく幻惑されるからだろう。タイトルの魔都はもちろん東京のことなのだけれど、がっちり練り上げられた文章の中に事件と人間がめちゃくちゃに絡まって荒い呼吸をしているのを見ると、やっぱりこの小説は事件や謎や人間ではなくそれを包み込む東京そのものを描きたかったのでは中という気さえ起こる。

 

【この辺が、「東京」を称して一と口に魔都と呼び慣わす所以なのであろう。われわれの知らぬうちに事件は始まり事件は終る。この大都会で日夜間断なく起るさまざまな犯罪のうち、われわれの耳目に触れるものはその百分の一にも当らない。それも、形象は深く模糊の中に沈み、たまさか反射だけがチラリとわれわれの眼に映じるのである。】

−久生 十蘭. 魔都

 

 

 

・長嶋侑:タンノイのエジンバラ

 

まずタイトルが秀逸で、一見するとマジでなんのことを言っているのかさっぱり分からない。小説内では意外とさらっとそれが出てくる。ちなみにスピーカーのこと。

タイトルは表題作で、それ以外にもいくつかの短編が収められているのだけれど、どれもタンノイのエジンバラと同様に、色んな具体的な物がさらっと、というよりはさらさらと、生きている人間たちの周りを通り過ぎていく。その人間たちはうっすらと悲喜こもごもを抱いたり、寂しくなったり、寂しくなくなったり、前を向いたり向かなかったり、哀愁と滑稽が入り混じったような世界で時に穏やかに、稀に激しく生きている。

なんというか非常に説明がしづらい。日常生活の中で気持ちが一ミリ二ミリ決定的に動く瞬間があるとして、そこをパッと掴んで描いているような感じ。決定的だけど大きな感傷じゃない。物語がバキバキに仕上がっているというよりは、流れる時間とかその場その場に対する解像度が異常に高くて読んでしまう類の本。たぶん文体が好きなのだ。あと、ユーモアのセンス。

 

 

【「どうしてグーフィは二足歩行でミッキーとも会話ができるのに、プルートは四つ足で歩いてミッキーに飼われているんだろう」なんでだ?プルートがかわいそうじゃないか。前から漠然と感じていたことを訊ねてみた。すこし意地悪な質問をした気分でいた。しかし瀬奈はまったくめげず即座に「そんなの決まっているじゃない。プルートには彼女がいないからだよ」といったので俺もさすがに返す言葉をなくした。「一人だけ彼女いないのに、皆と一緒に二本足で歩いていたら、やりきれないじゃないのよ」】

−長嶋 有. タンノイのエジンバラ

 

 

・長嶋侑:ぼくは落ち着きがない

 

タンノイのエジンバラに続いて長嶋侑で、同じく続いて説明がしづらい。学校の図書部員たちの日常を描いた作品で、つまりはよくある「日常ものラノベ」に如何ようにも転じることができる作品なんだけど、やっぱり異常に日常への解像度が高い。ああこういう会話あるある、というのを全く嘘くさくなくやるので、知らない学校の部室に盗聴器でも置いているような気持ちになる。こういう人いる、こういう会話ある、こういう気持ちある、というもののオンパレードなのだけれど、全く戯画的でないというか、ある種の生々しさすら感じる。この生々しさと随所にある可笑しみみたいなものが、読んでいて妙に懐かしくなる。こういう時間確かにあったなあと。覚えていないんだけど確かにあった。「確かに」と感じられるのが良い。

 

【泣く理由と同じくらい、笑う理由だって不可解なときがある。】

-長嶋 有. ぼくは落ち着きがない

 

 

 

 

森岡毅:マーケティングは組織革命である

 

集中的に森岡毅の本を読んでいた時期があった。いくつか理由はあるのだけれど、やっぱりUSJをV字回復させた立役者としての功績はものすごいものがあるし、個人的にこの人の合理的な考え方が好きだというのもある。そしてこの人は宰相である。個人の力もすごく高いと思うけれど、その力だけを武器にするのではなく、仕事とは基本的には総力戦であるという考えの人だと思う。だから必然、組織論的な本であると同時にそこに収まらない。組織は個人の集合体としての視点があって、個人として組織とどう組み合っていくべきかを説いた本でもあり、実践的な部分と理論的な部分が両方バランスよく編まれていた。組織革命という言葉がタイトルに掲げられているけれども、その火つけ役になるのは個、導火線になるのも個。マーケティングという言葉がタイトルに掲げられているけれども、言葉を変えれば戦略思考の本。なんというか、読んでお得だったと感じた一冊だった。

 

【「集団知は個人知に勝る」】

-森岡 毅. マーケティングとは「組織革命」である。

 

 

 

三津田信三:怪談のテープ起こし

 

めっちゃ気持ち悪い本だった。グロテスクなのではない。読んでいる間にどんどん自分の日常が侵食されるような気持ちになる。そういうホラー短編集。

そもそもこの本自体がある種ドキュメンタリー的な体裁で書かれていて、真実と虚構との境目が意図的に曖昧にされている。そうした中で語れる怪談は、作為的に作られたものなのか、事実として起こった奇妙な現象のことなのかが分からない。全くの嘘であると言い切れないように、微妙に真実めいた部分を残しているからたちがわるい。作者本人の体験が幕間に挿入されるし、綴られる短編も作者個人が創作したものではなく誰かから聞いたりしたもの、という体裁で書かれている。作者は体験者ではなく、伝え聞いた話者に過ぎない。ただ、話者を通じて怪談が一歩一歩自分たちの元へ引き寄せられていくような感覚になる。それが怖い。

本書は大きな謎を一つ最後に提示して、そして解答を添えないまま閉じられてしまう。謎の部分が最後まで読者に託されて終わるけれど、この終わり方ってどこかで見たなと思ったら「忌録」だった。作者同一人物説があったけど、確かに手法がすごく似ている。

 

 

・千葉雅也:デッドライン

 

同じ作者の「アメリカ紀行」と悩んだ。どちらも同じぐらい面白いし性質が近いと思う。デッドラインは大学に通う哲学専攻の研究者が論文の締切に追われながら日々黙々と思考する小説。アメリカ紀行は作者本人がアメリカにいった時の随筆。デッドラインは随筆的だけど大きな起と結があるからかろうじて小説っぽくて、アメリカ紀行は感情の波が豊かに記されているけど散漫な記録という味気なさは随筆っぽい。どちらも同じぐらいたくさんの「思考」が描かれていて、「言葉」との格闘が描かれていて、日々や日常の景色をパッと掴んでちょっと握って放つような、外に開かれているような感じもある。哲学を考えるものとして、またマジョリティではない同性愛に生きる人間としての作者が、思考と行動の二重のエンジンをなんとか回しながら、現実世界の中で位置付けを得ようと格闘している。

自分自身に対する内省的な考察から始まって、外世界のある種の真理みたいなものにゆっくり接続していく過程はいかにも研究者っぽい感じはするけれど、立ち止まって考えれば誰しもこういう時期はあったはずだ。つまり、自分について深く考えること、そして外を見ること。ただその二つがバチっと綺麗に結ばれることはほとんどなくて、多くの場合は中心に何を勝ち得もしない虚無感を置いてぐるぐるその周りをめぐる。その虚しさは葛藤と呼ぶには静かすぎるかもしれないけど、確かにあった。考えても行動しても、何も得られない瞬間はものすごく沢山ある。その時間の寂しさを、綺麗な文章で美しく描いているから、なんだか読んでいて辛くなり過ぎないし、いつか何かをつかめるだろうという救いみたいなものを感じる。

 

【僕はバルコニーに出た。篠原さんがついてくる。風が気持ちよくて、海辺にいるみたいだと思った。遠くを車が通り続けるシーシーという音が、海鳴りみたいに聞こえる。

でもそれは幻想なのだ。ここは東京のど真ん中だ。】

-千葉雅也. デッドライン

 

 

・滝本哲史:武器としての交渉思考

 

かなり昔に「武器としての決断思考」とか「僕は君たちに武器を配りたい」とかを読んだ記憶があって、この本もふと思い返してkindleで買った。思い返したのには理由があって、「2020年6月30日にまたここで会おう」という滝本哲史の講義記録を読んだからだった。そしてその後、最近に亡くなったことを知った。幾ら何でも若すぎるだろう。多分、同じ世代を生きた人でこの人の本に触れて刺激を得た人は多かったんじゃないかと思う。

全然話が変わるけれども、夢を語り続ければそれは実現する、という考え方があまり好きではない。あるいは、祈り続ければそれが叶うみたいな考えも。この前初めて見た「プリンセスと魔法のキス」(良い映画だった)で、星に祈るだけでは願いは叶わない、みたいな発言があった気がするのだけれど、うわディズニーがこれをいうかと驚いた。でも確かに、祈りを唱える口はそのままに、手足を動かさないといけないという現実主義の方が今の世間にはあっていると思う。「武器としての交渉思考」は、それそのもの、願いや希望、あるいはロマンみたいな抽象的で理想的なものを実現するための手段として交渉思考を使うという話で、それをかなり実践的な形で説いている。だからロマンを否定するのではなく、むしろ肯定する本なのだけれど、それでもロマンへの祈りはロマンを実体化させる手段にはならないということも説いている。ある意味ではドライなんだけれど、この感覚は好きだし、他の本にもあるこの実践的な手段についての思考は、社会に出るもっと前に知りたかったなと思うくらい、確かに一つの武器になった。

 

【どんなに素晴らしい夢や希望を語ったところで、相手に対して具体的なメリットを提示できなければ、人を動かすことはむずかしい──少しドライに聞こえるかもしれませんが、そのことをよく覚えておいてほしいと思います。】

-瀧本哲史. 武器としての交渉思考

 

 

 

 

山口周:世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか

 

エリートが美意識を鍛える理由は、合理的、科学的な問題解決手法がもうどん詰まりになってしまっていて、決断を下す個々人の倫理や道徳による判断が最も最速かつ最適な解になり得るから。美意識を鍛えるのはその最適なトレーニングである、とのこと。システム的なものが機能不全に陥っている時に個々人に何ができるのかと言う問いが突きつけられるが、その時に誤った判断をしないための方策が美意識とのこと。

美意識、と書くとビジュアルなものを想起するけどそうではなく、どちらかというと道徳的な「審美眼」みたいなもの。してはいけないこと、した方が良いことを的確に判断する道徳的価値観、もっというと人文学的な感性みたいなものなのだと思う。お金儲けや利己主義的な行動、破壊的なビジネスが結果的に現行法や人々の支持とぶつかり合って軌道修正を迫られる例は枚挙に暇がないけれど、そういうのは、していいこと、悪いことの美意識があれば避けられたんではないかとも説く。様々な物事の変化の速度がこれまでのギアから二三段切り替わった今、数理的な手法で解決策を検討する方法は対応速度が追いつかない。ただし直感で間違ったことをしてしまうのも困る。だから美意識。武器として使えるまでには様々な訓練と困難があるだろうし、美意識でビジネスを決めるなとの反論もそりゃ出るだろう。この本は目指す先を語っているのであって目指し方は語っていないし。ただ、目指すべきところとして共感はするし、合理と非合理を両輪で扱う器用さが、変化の速度が早い今だからこそ必要なのかなとも感じる。

 

【経営の意思決定においては「論理」も「直感」も、高い次元で活用すべきモードであり、両者のうちの一方が、片方に対して劣後するという考え方は危険だという認識の上で、現在の企業運営は、その軸足が「論理」に偏りすぎているというのが、筆者の問題提起だと考えてもらえればと思います。】

-山口 周. 世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?~経営における「アート」と「サイエンス」~

 

 

 

 

村上春樹象の消滅

 

2020年は「一人称単数」を読んだときに、なんだか初期の短編っぽいなと懐かしくなり、持っているものをいくつか読み返したりした。で、いっそ昔買わなかった「象の消滅」を買おうと思って購入。ニューヨーカーに選出された初期短編を編んだもので、村上春樹を海外市場に紹介する役割を担った短編集の輸入盤、ということになるだろうか。

村上春樹は初期、中期、最近ぐらいで結構作風が分かれる感じがする。最近のものになればなるほど遠大で抽象的、形而上学的な世界が舞台になる一方で、初期のものは比較的現実に根ざしたものが多く、とっつきやすい。ただ、人と人との関係、もしくは関係をしないということや、関係が切れる、失われることによって生じる現実への喪失感という点では、最近のものはややその傷をちゃんと塞ぐフォローが図られるのに対して、初期のものはけっこう傷つけっぱなしである。自分が関わらない、見えないところで傷ついていたり、もしかしたら何かの暴力に遠からず加担しているのかもしれないみたいな感覚。それは現実の視野角を少しだけ広げるような作用があるのかもしれないし、そういう終わり方をする短編が多い印象だった。それを象徴するのかわからないが、どの話も大体「理由がわからない」「理由を知らない」出来事が多い。これは描写力の問題ではなく、現実ってまあそういうものなんだよなという割り切りだと思う。これが引っかかる人だとちょっとしんどいかもなとは思った。

とはいえ全体的に見たら凄く好きな短編集。「パン屋再襲撃」のコミカルさと満たされない感じの同居している空気とか、「カンガルー通信」の一方的で情熱的なのにどことも繋がってない感じとか、「窓」の回顧的な静けさとか。「中国行きのスロウ・ボート」と「午後の最後の芝生」は昔に読んでも特に好きな短編だったけどやっぱり今読んでもあの落ち着いた感傷的な空気は品があるし、「納屋を焼く」は気持ち悪いし。。と、同じ短編の中でいろんな顔が見れる。

こうやって読むと、やっぱりファンタジー作家ではなく、結構現実主義的なんだなと思うことが節々にあった。現実は、社会はままならない。元気に大手をふって歩くことは難しいけど、まあ悲観的になりすぎないように。そういうものだから。と呼びかけるような作品が多かった印象だった。

 

 

 

 

・奥山ケニチ:ワンナイト・モーニング

 

映画「モテキ」でとても好きなシーンがあって、それは森山未來長澤まさみと晴れてくっつくシーン、、ではなく、麻生久美子リリー・フランキーと一夜を共にしたあと、吹っ切れたように朝に牛丼をかっくらうシーンである。このシーンが凄い好きで、同じようなものがないか探した結果この漫画に行き着いた。ワンナイトして、そのあと朝ごはんを食べる男女の姿を描いた短編。

なぜ牛丼シーンが好きなのかというと、それは何か色々なものを昨夜に置いてきて、空っぽになったから腹ごなしをする、という風に見えるから。何かが決定的に変わったのに、結局朝ごはんはいつも通りに食べる。そういうある種のダサさみたいなものが好きだった。この漫画の人たちも全然スタイリッシュじゃないし、どことなく不器用で、だからこそ朝ごはんのシーンがじんわりと良い。一方で、好きな人は好きだと思うけどそうじゃない人には全然はまらないんだろうなとも思う。結局、何にも世界が変わってない、という展開が自分は好きなだけなのかもしれない。

 

 

・平成ストライク

 

平成をテーマにした短編集。平成という言葉一つとってもいろんな解釈があるんだなと改めて気づかされる。消費税増税、カルト宗教の興り、福知山線脱線、などなど。あーそういえばこんなことあったなあと思うと同時に、昭和史に比べれば平坦に見えた平成史も山あり谷あり波あり凪ありで色々あったことに気づかされる。

本作は短編だけども基本的なジャンルはミステリーになっている。しかもミステリーといっても実に多種多様で、古典的なミステリー風味もあれば、池袋ウエストゲートパーク的な賑やかさのあるもの、ラノベ的な舞台回しで魅せるものや、現代小説らしい疾走感があるものまで実に様々。現代を生きる作者たちが、一昔前の物語を様々な形で描いたその手腕の多彩さが面白い。

単純に懐古的に終わるのではなく、平成を過去ではなく今につながる時代として描こうとする節も見えるのが良かった。過ぎ去った平成の長い影の中にまだ自分たちがいることを感じるし、同時に新しい元号の下でこれから描かれていくであろう長い時間についても思いが及んだ。

 

【「世の中のスピードはどんどん速まっとる。分刻み秒刻みで、津波みたいに情報が流れてくる。ええことやけど、その分忘れられてくもんも多い。この事故も十年後や二十年後にはみんな忘れかけかもしれん。もっと大きな事件の陰に隠れて、興味も持たれないかもしれん。だから撮る。記録に残す」】

 

-青崎 有吾 他,平成ストライク

 

 

松田青子:持続可能な魂の理由

 

めっちゃ怒ってる小説。何にか。おじさんたち。あるいは、おじさん的と称されるあらゆるもの。古い男性性、古い価値観、利己主義的なもの、独善的なもの、女性性を蔑ろにするもの、その後ろにある人格を無視するもの、セクハラパワハラなどあらゆるハラスメント、そういう病理を内在して尚当たり前な顔をしている今の日本。そういうものにめちゃくちゃ怒っている小説。

物語は本書で言うところの「おじさん」的なものに翻弄されて疲労する主人公が、アイドルグループ、というかそのセンターにハマるところから動き出す。アイドルでありながら世間からの眼差しや思いに反抗的な彼女たちのパフォーマンスに勇気付けられながら、主人公は徐々に怒りを原動力に世界を変えようとしていく。ちなみにこのアイドルはどう読んでも欅坂の平手。

小説として面白いかどうかで言うと正直わからない。怒りに共感したという感想が多い一方で、アイドルに一方的な思いを預ける姿は主人公が忌み嫌う「おじさん」的なものとどう違うのか、みたいな感想も見た。アイドルを題材にした二次創作を作中で否定的に描く一方で、この作品自体も同じ構造になっている部分もある。そういうある種の矛盾みたいなものへの違和感が最後まで残るものの、それでも、この怒りの熱量の凄まじさは圧倒的。多分、同じ言い分を論文やエッセイやTwitterの発言に置き換えたらここまで強烈な印象は残らなかったと思う。感情に載せて語られる小説だからこそ強烈に刺さる。もしかしたらと思うけど、この作品、そういう剥き出しの怒りの純粋さこそ際立たせるために、あえてそういう違和感を残したのかもしれないと思う。こういう感情がど直球に飛んでくるという経験はしてよかったなと思う。それは確かにものすごい説得力があるし、そういう点で現実の何かを変える動力として十分なパワーがあった。だから小説として面白いか、というのは脇に置いて見ても、十分に読んでよかった一冊だった。

 

 

 

 

 

 

5位:唐辺葉介:電気サーカス

 

現代版そしてアングラ版人間失格。90年代、まだインターネットが今ほど人々に広まっていなかった頃、テキストサイトを通じて繋がった人間たちの自堕落で暗くて湿っぽい青春紀行。青春小説ってある種の憧れの反映になるから、こういう風に生きなければならない、こういう具合に若さを謳歌しなければならない、みたいな押し付けを感じることがあるんだけれどもこの小説はそういうところが一切ない。若者たちが生きていく中に確かにある、暗くて停滞していたあらゆる時間を軽やかな文体で束にまとめたような小説で、薬物中毒で半分ニートの主人公は全然褒められたような人物じゃない。彼の周りにいる得体の知れない、何が生業か分からない人たちも褒められたような人たちじゃない。皆一様に繊細で暴力的で無神経で協調性がない。でも確かに自分達にすごく近いところで言葉を語ってくれている気持ちになる。その言葉に惹かれて本を読む手が止まらない。この読書時間は、夜寝付けずにコンビニにいった日や、あてもなくまとめサイトを巡回した日々や、大学の講義を寝過ごした事に気づいてベットの上でぼうっと呆けるような、誰もが体感したことのある恥ずかしいけど懐かしい秘密の時間に通じている感じがする。青春は華々しいものに満ちているわけではない。日が当たらない世界や、暗くてどうしようもないんだけど、死ぬ間際にこの時間を忘れたいかというと、どうしても後ろ髪を引かれるしょうもない時間の数々。そういうものを肯定してくれる小説なように感じた。

 

 

【とにかく、人並に無意味を恐れるのはやめよう。僕は今までそうだったように、これからも人生を空費してゆくべきなのだ。意味意味うるさいやつは、七三分けにでもしていればいい。僕は勇ましく自分の思想を実践する。具体的にどうするのかというと、黴臭い万年床でだらだらと寝て暮らす。】

 

-唐辺 葉介. 電気サーカス

 

 

 

4位:村上春樹:走ることについて語るときに僕の語ること

 

村上春樹の小説は苦手だがエッセイは面白い、と言う人も多い。分かる。例えだが、運動神経のあるダンサーが自分を極限まで鍛え上げてメッセージ性の強いパフォーマンスをする時と、単純にその人がのびのびと体を動かすことを楽しんでいる様とでは、おそらく後者の方が人好きがすると思う。小説というフォーマットに載せるときに生じる語り方のルールを取り払って、自由に好きなことを語る時に剥き出しになる「語りのうまさ」が人を惹きつけるのかもしれない。

村上春樹は小説家であり翻訳家であると同時にランナーでもある。この本はいかにして彼が走り、走ることについて何を考え、そしてどう実践しているかの本。とはいえランニングについての技術的な教則本ではなく、走るという行為を通じて仕事を、小説を、人生を再解釈するというような内容である。我ながらこう書くとよく分からないが、読んだ時の印象はそういう感じだった。ひたむきに何かを突き詰めた人が語る言葉は示唆に富んでいる。だから例えば、同じような印象をイチローのエッセイ(あるか分からないけど)を読んだときにも感じることができるかもしれない。実践というのは思索と分かつことができないし、思索の側も実践をそばに起きたがる。走るという極めてシンプルで身体的な行動が、村上春樹に多くのことを考えさせる。そして考えたことが、また別の実践としてアウトプットされる。その過程が巧みな言葉で説明されていく。

この本は、むき出しの語りの上手さで人生の妙を説くというある意味では極上の読書体験を提供してくれる。と同時に、無性にどこかに走りたくなる。運動って大事だなと。

 

 

【僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?】

 

-村上春樹. 走ることについて語るときに僕の語ること

 

 

3位:鈴木敏夫:禅とジブリ

 

集中的に鈴木敏夫の本を読んでいた時期があった。いくつか理由があるのだけれども、日本で最も動かしづらそうな人を動かしている人は誰なんだろうと思った時に、政治家でも経営者でもなく頭に浮かんだのが鈴木敏夫だった。あの宮崎駿と故高畑勲を巧みに操縦して歴史に残る映画を何本も作ったというのは、どう考えても並大抵の技量じゃない。その技量の真髄が知りたくて色んな本を読んだ。禅とジブリ、はそのうちの一つ。

鈴木敏夫の言葉を読むと、かなり自由に仕事をしていると分かる。自由というのは無作為なのではなく、かなり作為的に色んなことを仕込んで動く人なんだと思うけど、あまり何か自分の考えの及ばないことには固執をしない人なんじゃないかと思う。大監督二人も操縦しようと思ってやってるわけではないだろう。ある程度までやったら後はなすがままに任せる。未来はコントロールできないから今この時や、今目の前の人に全力で集中する。そういうある種達観した思想は禅と通じるところがあるようで、働く、もっといえば生きることへの価値観を語る鈴木敏夫の言葉と、禅僧との語らいが凄く気持ちよく絡み合っていく対談だった。ジブリ関連では他にもいくつか良い本があるのだけれど、禅とジブリはやや抽象的である分、参考にできる範囲がとても広い。めちゃくちゃ真剣に現代で生きて仕事をしている人と、めちゃくちゃ真剣に生きることを語れる人同士の対談は、折に触れて読み返したくなる含蓄に満ちている。

 

ジブリで一時、辞めたいという人が続出したことがあったんです。その理由がみんな同じなんですよ。「このままじゃ自分を見失いそう」って必ず言う。そのとき僕がいつも言ったのは「それは理想とする自分がいて、そこから今の自分を見ているからでしょ。そうじゃなくて今、目の前のことをちゃんとやりなさいよ」ってこと。】

 

-鈴木敏夫. 禅とジブリ

 

 

2位:李琴峰:ポラリスが降り注ぐ夜

 

表題にあるポラリスは新宿歌舞伎町二丁目にあるレズビアンバー。架空のものかどうかは知らない。架空な気がするがあえて調べていない。このポラリスに夜な夜な集まる人々の物語、なのだがバー・ポラリスは各短編の主な舞台になるのではなく、それこそ衛星のようにそれぞれの人生のある地点で触れ、そして離れていくくらいの存在感。言い換えれば、語られる一人一人の物語の重みや存在感が凄まじくて、ポラリスはその重みを一時緩和する休憩所のようなものかもしれない。

この小説は同性愛についてを語り、在日中国人についてを語る。台湾の政治的背景についてを語り、同じ言葉で恋と愛についても語る。それらは全て等しく重い。ただ全てが均等な重さになっている。同性愛の正しさ、在日中国人の正しさ、政治的運動の正しさ、みたいな内容を論文じみた言葉で語るでもない。ただただ今、この時この場所で生きて息をすることの難しさ、そして息ができるようになる瞬間の開放感を称えている。政治や性的志向の話は実のところ本筋ではない。呼吸のしづらさと、呼吸をしやすくさせてくれる何かについての話だ。誤解や偏見、変革や停滞や、あらゆる現実を生きる苦しさを描きつつ、そこに寄り添って掬い上げてくれる何かや誰かについての話だ。そういう意味では真にラブストーリーだと思う。世の中で生きていて息苦しさを感じずにこれた人はほとんどいないと思うから、ここで語られる言葉の数々は、自分の思想や志向を飛び越えたところからやってきて、刺してくると思う。

そして当たり前のように文章がものすごく美しい。文章が美しいという事はこの小説にとってとても重要だったんだと思う。それは見える景色や、人の言葉や、一挙手一投足や、風や光や音が美しいという事で、あらゆる息苦しさの中にあってそういう小さな美しさの連なりは大きな希望になる。マジョリティーでない存在として描かれることが多い作中の人物達の周りにも、常にこういう美しさがある。辛い現実を描いてなお、救いに満ちた小説だった。

あとがきにある言葉「あらゆる歴史は現代史であり、あらゆる理解は誤解である」が良い。

 

 

【「完全な正しさなんてないんじゃないかな」曉虹もまた、独り言のように呟いた。「仮にそんなものがあっても、誰かがそれに傷つくはず。そして誰かを傷つける正しさは、もはや完全な正しさとは言えないんじゃないかな」「じゃ、私達が間違いを犯している可能性もあるってこと?」「間違いかどうかを知っているのは二つの物事だけ」と曉虹は言った。「歴史、そして自分の心よ」】

 

-李琴峰. ポラリスが降り注ぐ夜

 

 

 

1位:柴崎友香:百年と一日

 

この本は、難しい。良さを伝えるのが難しい。世界のあらゆる場所で生きている人たちの時間を切り取ったような小説なのだけれど、主役は人間ではなく、人間を乗せて流れる「時間」の方にある。どんな小さな場所にも時間は流れている。街角の店は10年前は別の店だった。ではその100年前は、1000年前は。あるいは来年は、数時間後は。生活という舞台に人が現れて去っていく。留まる。死んでいく。食べる、踊る、話す、笑う、眠る。そういう様々な、小さな花火が無数に起こるような生き様を、長い長い時間の流れが包むように見ている。生きているということは、そこにあって変化する、ということなんだろう。そういう事実を丹念にスケッチするような小説。

短い短編が無数に連なっていくけれどそのほとんどに連続性はない。ただ世界のあらゆる場所の、あらゆる時間を題材にしている。空港、港、タバコ屋、ビルの屋上、砂漠、駅前。あらゆる場所とそこでの時間の流れが描かれる。時間と、日常はどこにでもある。

とにかくこの感覚はページを手でめくって文字を読まないとなかなか伝わらない。時間の姿を見るような感覚。日常を手にとって眺めている感覚。それは早送りや巻き戻しとも違う。もっと大雑把、なのに緻密で繊細。そこに今いる、という事の尊さが一文一文に凝縮されている。今そこにあるものも、次の時にはもうないかもしれない。ある、ということはない、ということの裏返しになっている。その心細さは同時に、無いという状態もいずれ終わるという安心感とないまぜになる。

今年読んだ本の中でもっとも不思議な感覚になった小説だし、市井の人々が生きている姿をここまで神聖に描いているのが衝撃的だった。日常の脆さと日常の確かさが同時に描かれている小説といえばいいのか。生きることも死ぬことも等しく時間の風に吹かれていくからこそ、壁のシミや道端の草や昔のだれかの言葉みたいななんでも無いと思っていたものの価値を、日常という時間の確かさを再確認できる小説だった。