36℃

読書と映画と小説と、平熱的な日々のこと

上を向いて歩こう。:夏川椎菜「ケーブルサラダ」と小説「ラフセカンド」

夏川椎菜の3rdアルバム「ケーブルサラダ」を聴いた時に、こういう景色を思い出した。

深夜の学生街のカラオケで、二次会だか三次会だかの延長戦で人の気配をそれぞれの個室の奥に感じるのに、通路の方は人気がない。ドア越しに音も声も削られて余韻や残響のようになった歌声だけが漂っている。深夜のこんな時間に歌っている人間はその瞬間、誰のことも別に好きではないか、あるいは自分以外の誰かのことだけを好きか、大体そのどっちかで、どっちにしても微妙に孤独だったりする。自由で、賑やかで軽やかな喧騒に隙間風みたいに寂寥感が刺してくる。でも、この時間のこの場所はそういうものだと分かっているから、ひどい気持ちにはならない。

どんな感じやねん、と思うが、言葉を置き換えるならこんな感じだ。

音の楽しさと、生きることの僅かな影と、それへの不思議な納得感。

 


喜怒哀楽を起点に展開する2ndアルバム「コンポジット」は秩序立っていながらも攻撃的なアルバムで、バンドサウンドを鉈のように振り回しながらその刃の軌跡で感情の色を描くような作品だったが、3rdは強いて言うなら「無秩序であることで、より穏やかになった」という感じ。前作より更にバンドサウンドに比重を置き、しかも夏川椎菜楽曲は基本的に歌と同等かそれ以上に演奏の存在感が強いこともあって、人が奏でる音楽の温度、演奏の体温や気分のようなものがひしひしと感じられるが、「自由にやったし、自由にやらせた」と言わんばかりに音の詰まり方や重なりが楽しい。

それでいながら最初から最後まで一つの綺麗な線が中央に走っているような聴きやすさがあるし、一方で穏当にまとまっていると表現するには、ゴロッとした塊のような感情的な要素の存在感も大きい。贅沢で器用なアルバムだと思う。

 

1曲目の「メイクストロボノイズ!!!」は袋にパンパンに詰めた音と言葉を一気にばらまくような勢いのある楽曲。続く「passable:(」の伸び伸びとした自由な演奏と肩の力の抜けた空気はそのまま「ライダー」の吹く風に任せるような気楽さへ重なっていく。と思えば「I can bleah」を挟んで艶やかでダークな景色が続き、「ササクレ」で一気に照明が当たるような開放感へ至る。出色は「コーリング・ロンリー」から続く三曲の連なりで、ここまでの楽曲の陰影を引き受けながら、寂しくも明るい世界観を大いに拡張してぎゅっと心臓を掴んでくる。

アルバム通して何か共通の物語性やモチーフがあるわけではなく、思うがままに好きな曲を好きにやった、というある意味とても素直な構成だが、後半に向かうにつれてそれぞれの楽曲の色が自然と連なって大きな流れを作り、異様な輝きを放っていく。
なんといっても、リード曲にして最後を飾る「ラフセカンド」に至ってはまるで「ハッピーエンドもバッドエンドも見た人でないと到達できない、トゥルーエンドのような美しさ」がある。あるいは、俗的な言い方をすれば夜明けの美しさ。ぐうっと心臓を掴まれるが、やっぱり最初からアルバムを通して聴くことで何倍にも光る終盤戦だと思う。

 

光るといえば。
「ケーブルサラダ」は自由奔放なバンドサウンドの楽しさが満艦飾のように続く。でもどこかにやっぱり暗さを残すアルバムだと思う。この暗さは闇深いとはちょっと違って、ウェットに世界や自分を嘆くのではなく、ドライに人生の不条理を突き放す時、人はただ笑顔ではないという意味の暗さだ。
「それはそういうものだ、仕方がない」「今日と明日はそんなに変わらない」「世界は急には動かないし、変わらない」「私は、昔の自分が志したような何者かにはなれていないし、なれないかもしれない」という言葉で置き換えられるような、世界や現実に対しての諦観。そういう暗さが曲の各所にのぞく。
ただ、例えば「エイリアンサークル」では「他人なんてどうせ理解できない」という諦めをそのまま「皆どうせ宇宙人みたいなものだ」と歌っても、それは決して引きこもるような悲観で着地させない。斜に構えて嘆くわけでもない。「まー、そういうもんだよね」とそのまま受け止める。暗さはあっても闇ではないのが、このアルバムの特徴で魅力だと思う。

 


明るいのに暗い。でもその暗さは明るさを損なうものでもない。完全生産限定盤付属の短編小説「ラフセカンド」もそういう趣がある。

個人的には、作家としての夏川椎菜の良さは既に「ぬけがら」でぎゅっと詰まったものが見せられているので、アルバムと同じぐらい小説の方も楽しみにしていた。見方を変えれば、9000円以上出して新刊を買ったようなものです。

そういうわけで、以下はバカ長読書感想文になる。

 

作家も色んな種類がいると思う。語彙の選択で世界に新たな視点を与える人もいれば音楽的な文の流れでそこにしかない時間・空間を紡ぎだす人もいるし、誰も見たことがない奇想天外な物語で胸踊る体験を与える人もいる。

そういう中で夏川椎菜の小説は、素直な、独白のようなまっすぐな文体を用い、見たことない景色ではなく「よく知る風景」を語る。自宅から最寄駅までの道ですれ違う誰かが主役になったような物語だが、そういう一般的な景色に感情や詩情を乗せることができるのは良い小説の為せる技の一つでもあるし、そうさせるための「物の語り方」がとても良い。

何をどの順番で語れば手元の要素を最大出力で相手に渡せるか、という点は、例えば「ぬけがら」の「章を追うごとに全体像と、一個人の感情が浮き上がって見えてくる」感じなんかにも表れていて凄く好きだったが、今回も例に漏れず巧みに練られている。

 

今回の「ラフセカンド」収録の小説はそれぞれ、既存の楽曲をモチーフにしている。と言いつつケーブルサラダのリード曲である「ラフセカンド」はなぜか含まれておらず、既存楽曲でも直接的にモチーフをなぞったのは「だりむくり」ぐらい。

表立っての特徴でいえば変化球尽くしだが、しかし通して読むと、曲と小説では別の世界観であっても同じ空気がはっきり流れているし、かつ3つの小説たちの中にも同じ空気があるし、なんなら名を冠していなくても「ラフセカンド」とも同じ空気が流れていることが分かるという、実にうまい具合に納めてくる。

 

この空気は何かと考えてみると、なんとなく、ある種の閉塞感ではないかと思った。あるいは、世界の操縦桿を自分がもう握れていない、という諦め。

「だりむくり」の主人公は、昆虫博士になりたいと感じた子供の時の自分と残業帰りで公園で飲んだくれる自分を比較する。「ササクレ」の先輩は自分のための音楽ではなく金になる音楽へ進んでしまった相棒への気持ちを整理できていないし、「passable:(」の劇作家は本当は完全新作が作りたいのにリバイバル劇ばかり作っている今の自分への焦りや苛立ちを抱えている。どれも、理想が「現実」によって、一つ一つ時間をかけて無力化されていく姿が、あるいは無力化された後が描かれている。

世界が波ならば、それが自分を打って引いていくたびに体を砂のように削り取っていく感覚。理想が突然破られるのではなく、徐々に時間をかけて消えていく感覚。なんだよ、と小さく毒づきたくなるようなものが積み重なっていって、気がつくと身動きができなくなり、自分の意思がなんだったのか、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。恐ろしいことだ。同時にそこには理想を、現実の手の及ばない範囲で遊ばせられていた時代への郷愁が、残り香として強く漂う。

 

こういうヒヤリとする、かつ妙に生々しい瞬間が、夏川椎菜の小説にはある。

「ぬけがら」ではちょっと仲の良くなったアルバイトの子がふっといなくなってしまった時のやるせなさや、学校では評価されていたのに社会に出たら全然通用しなくて擦り切れていく姿に。字数の限られた歌詞でないからこそ、克明に、丁寧に記されていく。

誰を打ち倒せば済むという話でもない。政府や学校や偉い人をどうにかすればいい話では当然なく、強いて言うならそれは「今」という世界をいかに処するかという自分の人生との折り合いの付け方でしか解決できない。相手がいないのだから、反抗的な、行動的なロック魂では到底戦えず、現実を睨むだけではしかし、現実は動いてくれない。だから、そういうもんだよな、クソ、と蹴りをつけ、せめて「笑えるまでは生きようかい」と、上を向くのだろう。

 

だから、「ラフセカンド」には、何かになろうと思って敗れた人たちが、まるで夜風の中にその熱量の火照りを確かに思い出すような瞬間がちゃんと刻まれている。
といって急に何かが変わるわけではない。明日や来週に世界が自分の意のままに激変することはない。どうせそうだ。そう諦めてしかしなお、熱意の火照りを思い出せたことには僅かな希望が生まれるし、それであればこそ、「忍び寄って自分を削り取る明日」が「遠くいつかの変化へ通じる第一幕」の明日になる。

小説「ラフセカンド」は、現実的で暗いがしかし、それを結論にはしていない。楽曲の「ラフセカンド」のように、現実を引き受けつつ、粗い道を走るための燃料をそこへ置いていく。

 

楽曲「ラフセカンド」ではつまづきや遠回りのある人生を、「素晴らしきかな我が人生」と歌う。

小説「ラフセカンド」内には「愛すべき過去と一緒に、今を生きている顔」という表現が出てくる。

どちらも、曲と小説の中で、一番ぐっと光る場所に配置された言葉で、ストレートで眩しくてとても良い。

 

「ケーブルサラダ」は散らばった配線がぐちゃぐちゃになっている様を指すドイツ語の「カーベルザラート」からきているらしい。散らばったぐちゃぐちゃな配線を、「今」の頭の中や感情の比喩だけでなく、現実と折り合いをつけるために必要な膨大な紆余曲折とも捉えられるかもしれない。

夏川椎菜を追い始めたのがCultureZ以降なので本当につい最近なのだけども、デビューから数えてここに至るまでに色々あったことは想像に難くない。アルバム「ケーブルサラダ」は、模索の果てに見た方向性の一旦の結論として、悲喜交々のごちゃごちゃを自由奔放な表現に乗せて開放し、諦観を抱えつつも歩いていく姿を示した。

同時に、今へ繋がる「これまで」の過程も意味に潜めて「ケーブルサラダ」と記し、そこに過去へのアンサーとこれからの宣誓として「ラフセカンド」を配した、、なんていう見方も出来てしまう。それくらい、明るくて何より「強い」姿勢のアルバムだった。

 

 

鮮やかなカーテンが風に翻った一瞬で暗く濃い谷間を見せたところで、それはまあ、別にそういうものなのだ。人生を指してそう感じられるようになるには、とはいえ日々の悩みは消えないし問題は生まれ続けるしでやっぱり時間はかかる。それに、明日は今日とどうせ大して変わらない。それでも、いつだって時間は巡って明日はやってくる。めでたいことに。

50分弱のアルバムと80ページ弱の短編はどちらも決して長大ではないかもしれないが、そんな風に感じられるような、どちらも深くて濃い作品だった。