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オレオレ、オレだよ、絶望だよ:ゴジラ−1.0

ゴジラさんも数えれば70歳である。それはそれは色々な役回りを演じてこられた。

 

戦争や震災の象徴、悪を打ち倒すヒーロー、かと思えば悪辣なヒール役、エトセトラ。子供向けから大人向けまで縦横無尽に立ち回り、「原爆実験の影響で生まれました」の前口上さえ名乗っておけばある程度の演出の幅は許容されるところが偉大なスターの懐の深さでもある。ハリウッド版のエンドクレジットで「Godzilla as himself」と表記されたのもさもありなん、ゴジラは映画によって様々な顔をする名役者その人である。

 

で、今回のゴジラは何かと言えば、絶望を身一つで体現してくださいという演出オーダーをつけられた。ホームグラウンド、ニッポンでの久々の勇姿。お手伝いさせていただきますと名乗りを挙げたのはゴジラ好きでも知られる山崎貴監督で、VFXの名手の顔と「ALWAYS 三丁目の夕日」「永遠のゼロ」等々で日本人の琴線を鳴らしまくった二つの顔をもつ名将。結果的に本作は「ゴジラさんへの惜しみない敬意と愛情」と「日本人のトラウマをくすぐりながら浪花節を聞かすマス向けドラマ」がぶつかり合い、溶け合ってそれでどうなったか。シン・ゴジラのような異常な鋭さこそ無いものの、ゴジラ映画らしい「エンタメと内省」を現代に沿う形で整えたバランスの良い名作になっている。実際、シリーズでこれが一番好きって人は出てくるんじゃないだろうか。

 

 

そういう風に書くとなんだか柔らかく受け止めやすい映画に見えそうだが、実際のところ、IMAXシアターの座席でその迫力と絶望感に縮こまるようにして見ていたから、容赦のない映画でもある。今回のゴジラはまたこわい。「また」、怖い。またか。

 

シン・ゴジラの時も怖かったが、しばらくマス向けゴジラ映画は「怖い」でいくらしい。しかもシン・ゴジラが、ただ異様な何かがぼうっと突っ立っているだけで怖いというある種幽霊的な怖さだったのに対し、今回のゴジラはむちゃくちゃに暴れ回る手のつけようがない動物の怖さだ。ファーストショットから「コイツァやべえ」と感じる堂々の暴れっぷり。こちら側の都合とか脈絡とか全く考えず、スクリーンに飛び込んできて大暴れする。

ゴジラ映画ですから、こう、出てくる時はですね、まずあのテーマ鳴らしますんで、山からぬっと顔出していただいて」みたいなことは全く気にしない。ゴジラの放し飼いである。

 

いい意味で伝統芸はどこ吹く風だが、そこはゴジラ好きでもある名将山﨑貴なので、従来のゴジラ「っぽさ」をうまく変化球にして驚きを与えつつ、皆が見たいゴジラの良さは完璧に抑えてくるから憎めない。一歩間違えればジュラシックパークジョーズになるところを、絶妙な塩梅で「ゴジラ映画」に引き戻してくる演出のうまさ。生き物っぽく見えたかと思えば予想もつかない形でギョッとさせられて、やっぱり既存の動物や生命とは一線を画しているのだと思い知らされる。ゴジラ映画とモンスターパニック映画の線引きがどこにあるかといえば思うにそれは「神聖性」で、血肉の通った生物ではなく天災や運命が手足と尾鰭を持って叫ぶ怪物になっていると感じさせられるその見え方である。当たり前だがマグロとか食わない。この映画のゴジラはモンスター的に大暴れはするが、「何食って生きてるかは分からん」し、そういう想像を抱かせない程度には神聖さが剥がれ落ちていかない。

 

あの、なんか背筋がスッとしてるのが気持ち悪いのだ、今回のゴジラ。その足元で、人間が、復興直後のようやくコンクリートが敷かれた銀座の地面につんのめりながら逃げている。そうでなくても皆、今日を生きることで精一杯で前を、上を向くのに大変な苦労をしている。神木隆之介が「こんな時なんだからしょうがないだろう!」と言うことをよく口にする程度には、混迷・混乱・困惑の時代。皆が下を向いて当然の時代。なのに、ゴジラだけはそんなの関係なく背筋がシャンとしている。これが怖い。狂ってしまったのは人間の方で、ゴジラの側は特に狂ってるわけではない。これが本能で、正である。正しく暴れて人を殺しにいく。怖い。

 

 

ゴジラが良い、だけならゴジラ好きの映画というだけで終わるが、この映画は人間ドラマでも勝負をかけてくる。シン・ゴジラとはそのへんは全く逆。徹底して市井の人間の物語を描いている。人間ドラマ部分は、ジャンルとしての好き嫌いは分かれるかもしれないが、ゴジラ映画に人々が求める内省的なところはこれまたちゃんと抑えてくる。

 

今回は戦後すぐを舞台にしていて、戦争と敗戦、その後の泥水を啜るような過酷な現実という大状況と、そうした中で個人が背負いこむトラウマがモチーフになっている。実際、ゴジラを抜いてもある程度成立するような気がするが、ゴジラという分かりやすく絶望的なキャラクターを中心に置くことで、個人の物語がより悲壮に、壮大に、迫力を持って迫ってくる。

 

基本的には皆、傷ついているところから始まっていく映画だ。だから役者の躍動がすごく大事な映画でもあったと思う。神木隆之介が繊細さと頑強さをブレンドしたしなやかな演技でこの辺のテーマを一身にうけとめつつ、浜辺美波のしたたかさが伴奏する。他、安藤サクラの人間描写の奥深さも素晴らしい。個人的によかったのは吉岡秀隆で、柔らかさと明るさ、同時にこの映画の数少ないコミカル要素も担いつつ、要所要所で「この人も戦争を経験しているんだ」と感じさせる暗い影が見えたりする。

 

全体的に説明的な台詞や演出が多いと言う指摘は否定できない。その部分をザクっとぬけば確かにスマートにはなるんだろうなと思う。でも、この映画の陰影が質感そのままに届く層はグッと狭まるだろう。汲み取らないといけなくなる。だからこの辺は、より多くの観客に届けるための技と感じてあんまり気にならなかった。

 

 

初代ゴジラの何が優れているかといえば、陰影だ。映像的な影はもちろんだけど、原爆実験を種火にしてゴジラが燃えて立ち、呼応して国が背負う影、個人が背負う影がドラマの中で黒く延びて重なり合っていく。それこそがスクリーンを濃く塗っているようにさえ感じられるあの陰影。カラーだったらあの異常な迫力は出なかったんじゃないかと思うが、それはひとえに色彩表現的な問題というより、ドラマの暗さを受け止めるのにモノクロが強い効果を発揮しているからでもある。

初代ゴジラはそれくらい暗いし、それが良さでもある。戦争のトラウマをゴジラの異形に象徴させつつ、重ね合わせるように人間個人単位の業もドラマに投じ、二つが独特な苦味となって合わさっている。

 

そして、初代ゴジラをさまざまな点でリスペクトしている今作が、そのドラマの悲痛さで胸を打つのは、リスペクトの結果か、監督の十八番を正しくこなした結果かは分からないが、この構造をなぞった部分が大きいと思う。それは、自信や威厳や勇気という人間個人としての精神や、富や遺産や文明のような人間集団としての資産を、前触れなく薙ぎ払っていく天災的な状況が降ってきて、それによって人生を狂わされた者立ちが、自身の人生の狂気や異常に個人的な蹴りをつけにいくという物語だ。今回の映画はある意味で戦争映画だけど、戦争論反戦映画という枠に収まらずに令和のこの時においても観客の中できちんと展開する物語になるのは、戦争以外のあらゆる理不尽な状況との戦いと、この映画の葛藤が地続きだからだと思う。

 

ゴジラは、基本的に人間がまず、負けるところから始まる物語だ。どうやったってあんなのに勝てるわけがない。その「勝てない」、打ちのめされる、屈服させられる、破壊される、という暗い体験は、やっぱり戦中戦後の歴史的事実に呼応するところがある。ゴジラ映画を見る時、迫力と勇士に喝采しつつ、心のどこかで合掌してしまう。ゴジラは、そんな不思議な暗さを見るものに与えつつも、映画という必然的に現代と結び付かなければならないメディアの中で進化し続けたことで、その暗さを含めて愛され、継承され、記憶に残り続けてきた。今回のゴジラは、そうしたゴジラ映画を見る人の心の機微を捉え、見る側がもっともそれに気づき、感応できるように「戦後すぐ」を舞台においた意図もあるんじゃないかという気がしてならない。

 

やっぱり、「生きることの絶望」に対して直接的な距離を持つ映画だし、その題材を演ずるにあたってゴジラは優れた役者だった。

忘れていた絶望を定期的に思いだすことで、今の現在地を確かめることができるのであれば、やっぱりゴジラは再び海からやってくるのだと思う。

 

今回のゴジラはちゃんと怖い。席に縮こまるようにして見たし、子供が泣いて退出する場面もあった。その恐ろしさと、恐ろしさに打ち勝つための人々の葛藤を、映画館で皆で見るという体験それ自体が、ゴジラ映画らしい体験だとも思う。

 

我々はいつでもどんなときでも熱く奮起することができる、というある種ベタベタとも言えるメッセージに強い説得力を与える芸歴70年のゴジラさん。絶望を一身に体現した名演すばらしかったです。