1994年の心霊写真:高野和明「踏切の幽霊」
「踏切の幽霊」はずっと読みたかった小説なのだけれど、なかなか電子書籍版が出なかったのでいつまでも手が出せずにいた。気がついたらKindle版が出ていたのでようやく購入。そもそも紙で買っていればもっと話は早かったのだけど、いつからか基本的に小説を電子版で買うようになってしまっている。
舞台は1994年。ある心霊写真の謎を解明するために記者が走り回る。踏切を写した写真に写り込んだ髪の長い女の霊。彼女は誰で、どこからきて、生前、何をしていたのか。
言ってみれば「本当にあった呪いのビデオ」の取材パートを超重厚にしたような話。幽霊譚を扱っているが筆致は全編通してリアリズムに徹しているし、まるでドキュメンタリーのような落ち着いた文体は、お化け屋敷的な過度な誇張に流れる事なく進む。オカルト的な物事をきちんと論理の枠組みの中で解釈しようと四苦八苦する様も面白い。純然たるホラー小説かというと少し違う気はするが、ミステリーでありホラーであり、人間ドラマも豊かな社会派小説という趣。複数のジャンルを曲芸的に行き来しつつ、最後まで「面白さ」のギアを落とさず一気に進む。巧みな伏線、力強い盛り上がり、明らかになったかと思えば遠ざかる真実。読後、一抹の寂寥感に託して社会の不可思議さを突きつけるところも見事の一言で、まさに技ありの感じは流石の直木賞候補、社会派エンターテイメントのお手本のような小説だった。「ジェノサイド」もそういえば面白かったけど、あれも10年以上前なのか、と時の流れに驚く。
1994年という舞台設定が良い。Windows95が出たのが、まあ商品名の通りに95年なので、その1年前ということは、世間がデジタルの波に飲まれる瀬戸際の時代。主人公は元新聞記者、今はフリーランスの雑誌記者なのだが、とにかく一つ一つの事実の裏どりをするのにあの時代は大変だったのだということがよくわかる。当然ネットは普及していなければスマホもないので、泥臭く取材し、泥臭く裏をとる。雑誌社の資料室や、昔の伝手が頼みの綱になる。
幽霊の正体を明らかにしていくこの物語の本筋は、いわば非現実的存在の輪郭を掴みにいく事なのだけれど、この時代ならではの泥臭くリアルな行動の数々でもって「非現実」に近づこうとする様が面白い。それは結果的に「非現実的な幽霊」を彼岸のものとして扱うのではなく、つまり向こう側のものとして押しやったままにするのではなく、我々の現実に地続きなものとして捉えられるようにする効果もあったと思うし、この幽霊を扱った物語が単なる「怪談」ではなく「身元も素性も社会に知られる事ないまま、この世をさってしまったものの悲哀」という社会派ドラマとして昇華するための必要な足がかりでもあったように感じる。94年を舞台にしてはいても、描かれる悲壮感は今の世相が抱える孤独感と十分通じている。
ところで今の時代に置き換えて、「心霊写真の謎を明かす」という物語が駆動するかでいうと、なかなか結構な難題な気がするなという感じもして、なぜといえば、心霊写真というものが怪談的恐怖の立役者だった時代から随分離れているからだ。デジタル化が進んだ事によって写真は簡単に編集可能な素材になっているし、もっといえば加工されることを前提にしているような時代になった。アナログだからありえた写真の一回性みたいなものは失われているし、我々は更新・加工・編集・共有可能な現実の中に生きている。紙の手触りでなく電子の利便を求める自分を省みるまでもなく、物質的なところからはどんどん離れていっている。更新も加工も編集もできない物質的なものに囲まれた世界だったから、写真に浮かび上がる異様の姿は際立ったわけで、そうではない世界を前提にした時に、写真に幽霊の姿が映ったとてまず間違いなく疑われるのは「どんな加工を施したか」あるいは「その加工を覆うためのどんなカバーストーリーを作ったか」の方だと思う。
だから今の時代だと、「写真に写った幽霊の素性を、本気になって泥臭く探しに行く」という段階まで人の興味は駆動せず、踏切の幽霊は誰からも顧みられずに路傍に佇む事になる。寂しい話だ。この小説が幽霊を扱っていながら、全編通して冷ややかなリアリズムの温度の中に哀切な響きをたゆたわせながらも、どこか人間的な温かみを随所に覗かせるのは、やっぱりこれを昔話として置いたことに由来するのじゃないかと思う。心霊写真を本気にできて、その向こうの人間の姿と生き様や温度を、ありありと感じようとあがけば、泥臭く人々の声を拾って辿り着こうとすれば、なんとか辿り着けたかもしれない時代。
そう考えると、読み終わって別の寂しさが湧いてくる。
殻破れて山河あり:CRACK and FLAP
「 夏川椎菜 4th Live Tour 2025-2026 “CRACK and FLAP」に行ったのは1月も後半に差し掛かる頃だったので少し前の話になるが、今になって振り返るに、結構変化球のライブだったのではないかという感じがある。
そもそもライブタイトルであるところの「CRACK and FLAP」がまだこの時点では発売されていない。殻をやぶるという大筋のコンセプトは発表されてはいても、発売自体がされていないので、それがどんな温度で表現されているのか、アルバム全体を通した印象がどんなものなのか、当然発売前なので直接的に触れる機会はない。
アルバム曲がライブ中で披露される事は事前発表されていたけれど、一方でこのライブを構成する主要な曲は前アルバム「ケーブルサラダ」以降に発表された曲たちで、その多くは、(ある意味では明確なコンセプトが無いことがコンセプトになっている)前作「Ep04」からの選曲になっている。つまり新アルバムの名を冠していながら、新アルバムからの楽曲的引用は殆どないという構成になっていた。
じゃあライブ「CRACK and FLAP」は、披露できる情報が限られた状態で何をしたかといえば、続くアルバムそのものをアルバムの曲に頼らずに表現するという相当にトリッキーな行為だったと思う。実際のところ、アルバムを聴いた時に感じる印象は確かにあのライブと地続きになっている。
それは3rdアルバム「ケーブルサラダ」のコンセプトをライブ「ケーブルモンスター」が見事に(むしろより迫力を伴った形で)表現したように、4thライブ「CRACK and FLAP」で示された方向性はアルバム「CRACK and FLAP」に綺麗にパッケージされている。前作よりも増したラウドでロックな音楽性、ユーモアと哀愁が混ざり合う歌詞世界、悲観と楽観が絶妙な塩梅で混ざり合う「前向きな諦め」の空気。2ndの頃に手探りながらも示した初期衝動的なバンドサウンドは3rdや数多のライブを経てより一層油が乗った感じになっているし、夏川さん本人の歌い方も史上一番ロックで、とにかく聴いていてずっとテンションが落ちない。
特に好きなのは全編通して殆どずっと「ロック」なのに(ライブ中に衣装替えをせず、歌とMC一本で終わりまで駆け抜ける姿に重なる)、アルバム全体通して確かな陰影があり、曲ごとに紡がれる曲調がバトンを渡すように次の曲の印象へ影響を与えていく点。「メイビーベイビー」や「 later 」、「SCORE CRACKER」なんかは単体で聴いた時とアルバム全体の流れの中で聴いた時で印象が変わると思うのだけど、こういう「構成美」みたいなものは夏川椎菜のアルバムにはずっとあって、これがアルバムを聴く楽しさの一つにもなっている。「ケーブルサラダ」の大団円ほどドラマチックに魅せる事はないけれど、絞った素材の中で確かにコンセプトを語る強かさもあり、今作は「楽しく音楽を聴いているうちに、さらりと、気づかないうちに感情を動かされている」ような鮮やかさがある。ひとえに音楽が強い。音楽の強さでずっと殴ってくる。
で、こうしたアルバムの良さが、ライブの時点でちゃんと予告されていたから面白い。ヒヨコ労働組合はもはやバックバンドの域を超えて、完全に夏川椎菜を含む一つのユニットとして素晴らしいロックサウンドを響かせてくれるし、悲観と楽観が入り混じる夏川椎菜の世界観を象徴するような曲を綺麗にピックアップして構成されたセットリストはアルバムのトーンとブレずにリンクしている。舞台上の演出は今回は前作等に比べるとかなり控えめだったが、その分、音楽そのものに意識が集中できるような采配だったと思う。
そして何より、ライブには「このライブの後には、どんなものがくるんだろう」という期待感と、それを醸成するに十分なクオリティがあったのだけど、アルバム側も同じく「このアルバムを経て、どんな展開をしていくんだろう」と期待させるワクワクするような感じがある。
こんな感じに、ライブはアルバムの曲をほとんど使わずして、アルバムの美点を綺麗に象徴してくれていた。ライブ演出的には結構シンプルなライブだったのだけれど、裏を読んでいくとかなりトリッキーというか、めちゃくちゃアルバムを大事にしていた空間だったのではないかと思う。
などなど、アルバム発売後のこの期に及んでライブの良さを噛み締めているのだけれど。
少し悔しいのは、このアルバム(あるいはライブ)の良さを捉えるにあたって的確な言葉が足りないと感じることがある。遅ればせながら2ndから追った身からすれば、夏川椎菜の音楽が殻をやぶりに破ってどんどん高いところにいっていて、オルタナロックと呼べばいいのだろうか、この領域で気鋭のアーティストと組みながら独自の色を失わず、どんどん鋭く尖って、面白くなっていっている。実際、どんどん凄いことになっていっている気がするし、その凄さをうまく言い表せられないから、色々な言葉で語られる評価ももっと読みたい。
それでも、凄みはあれど親しみやすさはずっとあり。一貫して「なんか変だよなあ、しんどいよなあ」という視線を自分を含むあらゆるものに向けているスタンスが根本にあって、それはうまく世界や人生や社会や世間に乗り切れない我々にとってみれば一つ「生きる」事において気楽に寄りかかれる依代のような感じがあり、なんというべきか、「作品の中に、聴く人のための座席が用意されている感じ」はずっと変わらない。殻をどんどん破った先に豊かで明るい世界観があるけれど、歌詞の狭間に見えるその地層の奥深くまで潜っていくと「パレイド」や「ファーストプロット」のあの感傷が否定されずに残っている感じがある。遠くにいったけれど別世界ではない。
だからこの先を、安心しながら楽しみにしてしまう。もちろんあくまで個人的な感想に過ぎないし、感じ方は人それぞれと思うのだけど、少なとも自分はこのライブ・アルバムを聴いてこれから先が楽しみで仕方なくなった。我ながら、幸福な楽しみ方をさせてもらっていると感じる。それぐらい良かった。
実家のような安心感:TrySail 10th Anniversary Tour 2025 “BestSail”
幕張公演と神奈川Day1に行ってきました。そういえば「SuperBloom」に参加した時も同じ組み合わせだった。あれが初めてのライブで、武道館を経て今に至るのが自分のTrySailライブ歴です。
もう終わってから一週間経つのか、と思いつつ、なんかじんわりしみじみと「いいライブだったなあ」という言葉に凝縮される時間でした。
幕張公演が3階席だったこともあってか、つまり全体を俯瞰してみれるような位置にいたこともあってか、TrySailのライブにしては少し落ち着いた気持ちでこのライブに臨むことができました。それでも、自他ともに認める「お祭りマッスルユニット」なので大変カロリーはもっていかれるわけですが(翌日にバンテリンのお世話になった)。
とはいえ、ドラマチックな武道館での「出航」を経て、この10年の軌跡を振り返る映像とともに始まるライブは、幕間で3人がユニットそのものの過去と今について語る場面なんかも含めて、楽しくて激しいのだけどどこか内省的な側面もあるというか。
激烈な騒がしさの中でも観客の足を止めさせて、じんわりと「過去と今」に目を向けさせてくれるような穏やかな顔も持っていたライブだったと思います。
今回のライブは、BestSailというアルバムがあるにはあるけれども、個人的には「TrySailというユニットとその軌跡を、アルバムという表現で魅せたのがアルバム版BestSail、ライブという表現で魅せたのがライブ版BestSail」という印象を受けました。
アルバムをそのまま舞台上にトレースするのではなく、ライブアーティストとしての側面を取り上げて舞台上で再構成したのが今回のライブ版という印象です。
というか、シングル曲を全て歌い上げる先の武道館ライブが、ある意味では実質的な「ベスト版」のような側面を持っていたライブだったので、同じように「今回もシングル曲全てをやってベスト版とします」という手段は取れない。そうなった時に、「曲の構成は武道館ライブと異なるし、アルバム版BestSailを綺麗になぞるわけでもない、それでも確かにベスト版的な風格があるライブ」になっていたのは流石でした。
アルバムという形式の中にはどうしても盛り込めない、ライブだからこそ表すことのできる表現力や活気、情緒、賑やかさが綺麗に散りばめられていました。
楽しくて明るい、実に「TrySailのライブ」という感じ。
おそらくは昔からの人には懐かしく、新しく知る人には入り口として入りやすい、そういうとても間口の広いライブだったように感じました。言い方が変ですが、とても居心地が良かったです。
自分は古くから知っている人ではないのですが、懐古的すぎるわけでも、新しさに走りすぎるわけでもない、本当にちょうどよく、どの層の人にも届く感じ。でも、昔を懐かしむ時間も、これからに期待させる時間もない訳ではない。本当にちょうど良い塩梅。このバランス感覚がすごく心地よかったです。
おそらくはTrySailの3人も、このライブを作り上げたスタッフの方々も、どんなファンがいてどんなことを求められているかを凄くよくわかっていて、またファンの側もどんな事を求めたいかがはっきりしていて、両者がピタッと重なった地点で作り上げられたような時間だったように思います。
なんというか、ライブ中の一体感が凄かったのですが、演者も客席も皆おなじ方向を向いている感じがする、阿吽の呼吸みたいなものを舞台上と客席から感じられるライブでした。
皆で作ってきた感があるのですよね。
今回のライブ中、3人を8割の意識、残り2割の意識を観客に向けていることが多かったのですが、それはどちらも「肩の力を抜いて楽しんでいる」ように見えたからでした。
3人がこの瞬間を楽しんでいる、その事が観客にとって最大の楽しみになっていて、これがまたパフォーマンスに力を与えていく。そういう素敵な好循環が、目の前で繰り広げられているように見えたからです。
この好循環、裏を返せばここに至るまでの過去、ずっと昔には「楽しませなきゃ」「楽しまなきゃ」という力み方の上で一つのライブを作り上げていた時期もおそらくはあって、そうした共闘のような時代を経て段々と今の、お互いに信頼を預けるような一体感に繋がっているのかな、とも思いました。その姿はまさに10年の軌跡の為せるもので、この関係性は確かに物理的なアルバムでは表現ができない、舞台という空間と、何より観客の存在があって初めて見せることのできるTrySailの一側面です。
大変なこともあったよねという話を神奈川Day1で開けっぴろげに話す3人でしたが、10年の軌跡の中ではやっぱりそういう時間もあったことと思いますし、そういう事をあの場で言ってくれるという事が一つの距離感の現れでもあるように思います。
自分はこういうユニットの現場をたくさん見ている訳では全然ないので正直あまり比較ができないのですが、少なくとも自分がこれまで見てきたライブアーティストの空間とは少し毛色が違うなと感じました。
独特の多幸感がある現場だと思います。
3人のあの独特の空気感(歌が始まるとスッとその世界観の人になるのに、歌が終わってMCになるとものすごく身近な存在に感じられるあの振れ幅)だけでなく、やっぱりそこには集っているファンの空気もあるように思うのです。
「TrySailがなんかやると言うので、いつもの皆で集まりました」とでも言うような、なんか同窓会みたいな空気を感じました。往々にしてそういう場は昔馴染みの人だけが盛り上がって新参は蚊帳の外ですが、ことTrySailについては新しく入った人にちゃんと席が用意されて、盛り上がれる。開かれていて明るい感じ。
帰り道に、ファン同士が感想を語り合っているのが耳に入ってくる時間が好きで、わかるわかると心で頷きながら帰りました。
わかる、皆でバンザイするのって、実際にあの空間でやるとわかるけど、めっちゃ楽しいよね。
飴と爆弾:劇場版チェンソーマン レゼ篇
すごいものを観た、と思いながら劇場を出る足がふらついた。
そして街を放心状態でぶらぶら歩いて、また再び劇場へ戻って、次の回のチケットを買った。
チェンソーマンの、別に大ファンではない。一応、原作の第一部はなんとなくで読んでいたが、アニメは1、2話ぐらいで止めてしまった。レゼ篇も読んだはずなのに、内容は殆ど覚えていなかった。アニメ総集編の評判が良くて、これもなんとなく観たら面白かったのと、米津玄師と宇多田ヒカルと上田麗奈の名前に釣られて、なんとなくで足を運んだわけだ。
逆に言えば「チェンソーマン」がどんな雰囲気なのかも、そのアニメ版がどういう感じなのかも、ある程度予見できている状態で、その上で軽い気持ちで観に行った。
そしたら、なんかもう、別格の体験だった。
7月に鬼滅の刃の無限城篇が出たばかりなのに。日本のアニメ業界はトップ層で殴り合いでもしているのか?
控えめな言葉を捨てるなら、この映画、奇跡みたいな映画だと思う。
レゼ篇はボーイミーツガールの物語で、抒情的で甘酸っぱく、しかしチェンソーマンらしく残酷で大胆で暴力的でぶっ飛んでいる。つまり静かで穏やかなドラマと、激しく騒々しいアクションが共存している。そういう映画は往々にしてある。でも、そういう映画の殆どが、ドラマとアクション、静と動を行ったり来たりする。映画の不文律的に、長い時間の中に動きのある「見せ場」を定期的に差し挟む事で、まるで吸って吐く呼吸のように、リズムとテンションを維持する。戦闘シーンの合間に場面が変わったり、回想が入ったり。それは映画のテンションを保つ上でも、観客の集中を保つ意味でも必要なことだったのだろう。
ところがこの映画に限ってはそういう作り方をしない。
本当に信じられないことに、中盤以降、ずーっとギアがフルに入りっぱなしで「ついてこられるやつだけついて来い」と言わんばかりの大立ち回りの連続、息継ぎの間をまるで与えないで最後まで全速力で突っ走る。レゼとデンジの淡い日常の時間と、頭のネジが吹っ飛んだような大活劇が良い意味でお互いを完全に無視するような存在感で並び立っている。
モノローグ?知るかそんなもん、とでも言わんばかりに。
アニメーターの手の動き、滴るインクの一滴さえも余すことなく画面に写し取ろうとするような、貪欲で暴力的な作画。まあ、もう魅せる魅せる。一瞬たりとも幕間を挟まず、絵と音の力で殴り続けてくる。
大活劇は青春の瞬間を再び手に取って参照するようなことをしない。「あの時」を思い返すような回想も一切入らない。全くギアを緩めることがない。鬼滅の刃とは真逆の作りで(当然、どちらが良いという話ではない)、そろそろここで一呼吸置くかなと思ったら全くそんなことをしない。ビームではないが、「最高最高最高」を畳み掛けるテンションでずっと疾走する。文字通り疾走する。
それなのに、数多の爆発が街を破壊しながら夜空に焼き付ける色彩、拳と拳の激闘が切なく見える時がある。音楽も映像も真正面から「アクション」を描いているのに、血湧き肉躍る大爆発の向こうに前半の穏やかな時間がチラついてくる。目に入る映画とは別に、頭の中に違う映画が描かれるみたいに。
いやほんと、なんでこのバランス感で成立してるんだ?と冷静になると怖くなってくる。全く異なる種類の2つの映画が共存している。
ところで、「異なるもの同士」という要素それ自体が、この映画においてとても大事だったりする。人間と悪魔、都会のネズミと田舎のネズミ、デンジとレゼ。
異なるもの同士といえば、この映画はずっと、描かれるものとは違う位相を裏側に控えさせている感じがする。アクションの裏側に、爆発の粉塵に隠れたドラマがある。レゼが見せる笑顔の裏側には語られない時間と言葉がある。マキマの言動には未だ描かれない思惑がある。そういう二面性的な構造がチラチラと目に映る中にあって、時折、画面を過ぎる「素直な、嘘のない優しさ」がすごく大事にされている。
デンジとレゼの2人の物語には存在感を譲るものの、アキと天使の悪魔のパートナーシップも印象的に、まるで映画のテーマの補助線のように描かれている。お互いに理解し合うことなく、牽制し合う2人が、ある瞬間に本音をむき出しにする。そこで描かれるのは、この映画が表面的に描き続ける「残酷さ」とは全く逆の感情だ。
この映画は表立ってはグロテスクで非情、言い換えれば激しく暴力的だが、その裏側にある静かで優しい感情こそが本体だと思う。
殆ど直接的に描かれない「優しさ」が胸にくる。そしてそれは場面での演出以上に、声優陣の演技でもって描かれる部分もとても大きい。1人のこらず全員良かったのだけど、特にレゼ役の上田麗奈は幾つもの顔を持つキャラクターを見事に一つの人格に束ねて見せた上、その演技で最大限の助走をつけてEDの宇多田ヒカルと米津玄師のデュエットへ感傷のバトンを繋いだと言っても過言じゃないはず。大拍手。
ここまで核心的なネタバレを避けて書いてきているつもりだけど、本当に良い場面、演出、動き、感情ばかりに満ちた映画で、爽快感と喪失感、開放感と虚無感、疾走感と閉塞感といった相反する感情が絡みながら波状攻撃をかけてくる映画をなかなかここ最近観ていなかった。
一個だけ直接的に映画の場面に触れるなら、祭りの夜の飴と花火の場面が好きだ。あの瞬間を中心に映画が折りたたまれて、美しい甘い色合いの飴と鮮やかな花火が、別の意味合いに転換して、異なる位相に落下していくような感じがする。
映画のギアが変わる瞬間。2回みてもあの流れはゾワっとする。
同時に、そこには映画を見ることの根源的な喜びのようなものが確かにあった。知らないところへ、どこかへ持って行かれる。有無を言わさない勢いがある。圧倒的で、楽しい。
家系ラーメンに負ける
キムタクが「なんだこれ、うめー!」みたいな事を言いながら家系ラーメンを食べる動画に触発されて、近所の家系に行くことにした。行った事がなかったが、評判のいい店らしい。
動画ではライスも一緒に食べていた。色々とトッピングをアレンジしていて、これがまたうまそうだった。
家系ラーメンを食べる時、ライスを合わせたことがなかった。これは醍醐味を損なった状態だったのかもしれない。ネットで「家系ラーメンの食べ方」を調べると、色々と指南が上がってくる。簡単に読んでから店舗に向かった。
初めて入る店だったが、ご丁寧に「家系にはライスがあいます」と各所に掲示されていて、オススメの食べ方や調味料の使い方まで貼ってあった。情報量が多い。読みながら待つ。
そうしてやってきた麺とライスを相手取ったわけだが、「やっぱりライスが合いますね」なんていう生易しい話に収まらなかった。
最初は普通に麺を啜っていて、これ自体でガツンと脳天にくるような味の濃さとキレがある。
食べ進めていくうちに、だんだん悩んでくる。まず、海苔をどう使うか。にんにくをどこに置くか。豆板醤は今入れるか、まだ抑えるか。
ただ、この辺りはまだ普通のラーメンを食べている時の悩み方の範疇で、自然と自分の中で解が出てくる。この解はこれまでのラーメン遍歴を踏まえたものが殆ど半自動的に出力されるので、大体自分の好みの範囲に収まってくる選択肢だった。
問題はライスだ。ライスが問題だ。ライスがあるだけでこんなに悩むと思わなかった。
ラーメンを食べ進めた後、ライスの存在感が増してくる。こいつをどこでどう使う?
卓に並んだ調味料の脇に店のオススメの食べ方がご丁寧に添えてあるのでまずはその通りにやってみる。うまい。当然にうまい。
それで次はどうする? 海苔とネギとチャーシューと煮卵とニンニクと豆板醤とお酢と胡椒とたくさんの調味料に彩られたデッキが目の前にある。どう組み合わせるか。悩みながら合わせてみる。うまい。このうまさは脳天にくる。だから思考が飛ぶ。それまでゴチャゴチャと悩んでいた。それが一瞬で塩分の波に洗われて消えてしまう。
悩んだ結果、悩みとは縁遠い解放感に殴られ、そしてまた悩む。そしてまた殴られる。悩む。圧迫と解放。この繰り返しはサウナみたいだ。
だんだん、訳がわからなくなってきた。脳が味覚のシャワーの中で、音を立てて開いていく感じがする。
問題はライスだ。ライスがある事で選択の幅がものすごく広がるのが家系の妙なのだ、とこの時にようやく理解した。
そして、徐々に自分の中のラーメン遍歴に裏打ちされた「オススメ解」が無くなっていくのが分かった。単純に、経験がない。ライスと、家系ならではの沢山の具材と、沢山の調味料とで編まれる食べ方の選択肢の幅広さに対して、自分の中で道が作れない。手探りで悩みながら、選択肢を作ってみる。
うまいんだこれが。ハズレがない。懐が広い。どんな選択も正解にしてしまう。家系ラーメンは優しい食べ物なのかもしれない。
優しさの傍で塩分に殴られる。悩んで、うまくて、殴られる。優しい。そして混沌としてくる。この混沌はギラついている。濃くてキレがある。ニンニクの香りがする。
自前のパーツでミニ四駆がコースを爆走するのをみるのと同じような快感がある。悩んで選んで味わうと飛ぶ。
結局、食べながらずっと悩んでいた。
悩みながら食べるので脳が疲れてきて、その分、一口の快感の爆発力がさらに高まった。目がまわるような忙しさだったのは、終始うまいうまいと手を動かし続けたからだ。
うまかった。でもなぜか精神的には敗北感のようなものが湧き上がってきた。自分がこれまで食べてきたラーメンの食べ方の道の狭さを知った。家系の選択肢の幅の広さに見事に組み伏せられた。家系ってすごい。追いつけなかった。置いていかれた。なすすべがなかった。
うまくて、疲れて、圧倒されてぼうっとしながら帰った。異常に暑い夏が続く。
時間除染師
こんな夢を見た。時間除染師にまつわる夢だ。
ある男が時間除染師の仕事に就くことになった。とにかくキツイ、誰もやりたがらない仕事で有名だが、男には金が必要だった。
時間旅行が富裕層の娯楽になってしばらく経つ。彼らは空飛ぶタイムマシンを用いて、今日も過去への時間旅行に勤しんでいる。
時間を遡行するタイムマシンを、海を渡る船に例えると、船が早ければ早いほど、遠くへ行こうとすればするほど、飛び散る飛沫の量が増える。飛沫は、タイムマシンの軌道上にある建物の壁や地面にこびりつく。これを放っておくと人体によらかぬ作用をする。だから定期的に一箇所に収集した後、時間除染師が洗い流しにいく。
当然、除染師の仕事に就く者はタイムマシンに乗れるような身分ではない。除染先に指定された新宿の廃ビルに向かう道すがら、上空を悠々と飛んでいくタイムマシンを見上げて、男は「羨ましい限りだ」と思った。
廃ビルに着くと、年配の老人が待っていた。着任初日なので、機材の使い方などを教えるべく男を待っていたのだった。寡黙で、必要以上のことは話したくないという雰囲気の老人だった。
男は一通り聞くべきことを聞くと、防護服を着込んで時間の「飛沫」が溜められているビルの上層階へ向かった。老人も面倒くさそうに着いてきた。
「飛沫」は、フロアの中央にまとめられていた。からっぽのフロアはコンクリート剥き出しで、その真ん中に虹色の水たまりがある。窓からの光を受けて、水たまりから陽炎のようなものが立ち上っているのが見えた。これが切り裂かれた時間の切れ端だ。
男は陽炎に向けて、ラッパのような形をした除染機の先端を向け、スイッチを入れる。陽炎の揺らめきが大きくなって、除染機の先端に吸い込まれていった。フロアには除染機が稼働するブウンという音だけが響いた。
男は、除染機の先端に目を向けていた。今のところ、何がキツイ仕事なのか分からない。
水たまりは大人1人が横たわったぐらいの大きさだった。立ち上る陽炎の幅も広い。空中で軌道を変え、除染機に流れ込むのを見ていると、ちょうど帯状の揺らめきを見下ろすような格好になった。その帯の中に、何か映像が浮かび上がってくるのを、男は見た。
自分が昔持っていた、音楽プレイヤーだった。今の今までそんなものを持っていたことをすっかり忘れていた。音楽プレイヤーの像はすぐに揺らめいて消え、昔通っていた小学校の階段の姿を写した。階段の像も揺らいで消えた。そして、高校の時の部活の先生の顔が浮かんだ。先生は消え、初めて行った一人旅の時に乗ったバスの車体を写し、子供の時に遊んだ公園の遊具を写し、塾のホワイトボードを写し、あまり話したことのなかった親戚の横顔を写し、いつか住んでいた部屋のベランダに干される洗濯物を写した。
そんな、言ってみればどうでもいい記憶の数々が、陽炎の帯の中に像を結び、消えていった。美しい思い出とか、嫌な思い出とか、そんな風に頭の中で分類することすらない、ただ人生を通り過ぎていった無数の景色の断片だった。まるで夜の電車の車窓に映る家々の灯りのように、視界に入って瞬いたと思うと、次の瞬間には消えていった。
気がつくと、男は陽炎を直視できなくなっていた。懐かしくて泣きたくなるような思い出ばかりだったらまだマシだった。全く劇的ではない記憶の膨大さに、むしろ男は圧倒された。自分がいかに立体的で、巨大な時間の中を生きてきたかを突きつけられたような気持ちがした。瑣末なものも含めた数々の物事が、レンガのように積み重なって男の人生を構成している。そのレンガが崩れて一斉に、雪崩を打って男に降りかかってきた。
それまでは、辿れる範囲の記憶でしか測れなかった、自分の人生の本当の質量を男は知った。あらゆる種類の感情が渦のように体を巡り、足が震えた。気が狂いそうだった。
結局、除染の仕事は年配の老人が代わってくれた。老人が除染機を平然と操る姿を、部屋の隅に逃げた男は呆然と見つめていた。
仕事終わりに、無造作に倒した除染機の上に座って缶コーヒーを飲む老人に、なぜそんなに平気だったのかと聞いてみた。男はもう、この仕事を明日にでも辞めるつもりだった。
「俺は頭を打って、記憶がないんだ。自分のことを何にも覚えていない。だからどんな思い出を見ても、なんとも思わない。他人事でしかないんだ」
と老人は言った。そして、男を見上げて続けた。
「羨ましい限りだよ」
終の麺屋
社会人になって間もなかった頃のこと、自転車で通勤をしていた。
残業で遅くなると、職場を出る頃にはテッペンを超えることもあった。静まり返った夜の街を3、40分かけて自転車を漕いで帰ることになる。
そんな帰り道の途中、殆どの店がシャッターを下ろす中、一軒だけ開いている店があった。煌々と、と呼ぶには控えめすぎる明かりを夜の道路に漏らしている。これがラーメン屋だと気がつくのは、何度かその前を通ったある日のことだった。
一見してラーメン屋と気づくのは難しかった。赤提灯もなければ,夜の闇で看板もはっきり見えない。
店は、やたらと夜の遅い時間までやっていた。この近くに駅があり、駅の近くに飲み屋街があり、そこで酔った客が立ち寄れるようにこんな時間まで開けているのだろうと思った。駅がとうに終電を送り終えて、飲み屋街の賑わいが潮のように遠のいても、店は立ちすくみたいに開いていたが、その様子は「開けている」というより「閉め忘れた」みたいにひっそりしていた。
この店には何度か通うことになる。決まって深夜なのに、酔った客も仕事帰りの客もおらず、カウンターと小さなテーブルだけの店に客は自分しかいなかった。天井近くのテレビが1日を終えた振り返りのニュースを流していて、大体、野球でどこが勝っただの、負けただのの話をしている。店は、おばあちゃん店主が1人で切り盛りしていた。
タンメンみたいな、野菜が多めに入った、スープのとろりとしたラーメンを、晩ご飯にすすった。
おばあちゃんとは一度だけ話したことがある。遅くまでお疲れ様ですね、みたいなことを言われた。おばあちゃん店主という言葉に想起されるような馴れ馴れしい感じではなく、何度か通っていても言葉をかけられたのは一度きりだった。
お互い様だよな、と思ったのを覚えているが、その時にそんな率直な言葉を返したかは記憶がない。
真夜中のど真ん中で、眠ように静かに営まれているそのラーメン屋は、自分が通勤ルートを途中で変えてしまったことで、その後しばらくしてから行かなくなった。
最終的にその街から離れる折にその店の存続を確認しなかったのは、そんなに思い出に強烈に残るほどの店でもなかったからだ。ラーメンが特別に美味しかったというわけでもないし。
だからその店のことをずっと忘れていたのだが、この前、仕事が遅くなった深夜、家でサッポロ一番しおラーメンを1人で食べた時に、唐突にその店のことを思い出した。疲れた誰かがやってくるかもしれないという一縷の可能性のために、深海みたいな夜の街の端で、鍋を温め、テレビをつけ、あかりを灯していた店のこと。一芸の粋を丼に込めるラーメン職人の仕事ぶりとは異なる。しかしあれはあれで、何か覚悟じみたものがあったよな、と思った。
今思えば、その店に出会ったことが、何かしら自分の価値観を形作ったような気がする。人に顧みられるばかりでない静かな仕事について、誰かに何かをもたらすことについて、疲れた人を受け止めることについて。そういう存在が世の中にはある、ということについて。
多分、人生の中でそういう麺屋に出会えることというのは、そう多くはない。
