36℃

読書と映画と小説と、平熱的な日々のこと

夏川椎菜3rd Live Tour「ケーブルモンスター」の感想

 

ケーブルモンスターの立川day1と神戸day1にそれぞれ参加してきました。自分の中でのツアーはこれにて終了。感想をまとめておこうと思います。

ネタバレありなのでご注意ください。

自分はデータ収集型の人ではないので記憶違いたくさんあると思うけどそこは生暖かい目で見てください。

 

 

大体がライブ終わりは「よかった、、よかった、、」と辞世の句みたいに呟くしか出来なくて、それは初めて参加したMAKEOVER以来変わらないのだけども、後から冷静になって、じゃあ一番何が良かったの?と問われると、はて?となる。

夏川椎菜のライブって基本総力戦だと思っています。音、衣装、演出、MC、セトリ、観客、夏川さん個人のドラマ。個別の要素のどれか一つ選んで「だから良かった」ではなく、全部が相互に補完しあって、合体したモンスターみたいになって襲いかかってくる。

そりゃあ「何が」とは言えんて。

 

 

そういう中でのケーブルモンスターの印象は、MAKEOVERを受け止めながら違うことをしようとしているのかな、というものでした。

MAKEOVERPre2ndも)は「バンドサウンドめっちゃいいと思うんだけど、どうでしょ?」というライブで、そりゃもう「ええ、ええ、そりゃもう」という感じだったんですが、ケーブルモンスターはその時に出来なかったことをやろうとしていると。つまりは声出し、レスポンス、観客との一体感。MAKEOVERを「観客がバンドに走ってついていくライブ」とするなら、ケーブルモンスターは一緒に歌って踊ってハイタッチするようなライブ。二つのライブともにドラマチックだったけど、観客と舞台が地続きになって手を叩いている感じのするケーブルモンスターは、どこかあったかい感じがする。

 

もちろん時制もあります。声が飛び交うライブは、まだコロナの影響が強かった時分に比べれば当然、異なる温度がある。一方、「ケーブルサラダ」を中心にしたライブでこのあったかさはすごく大事で、アルバム自体がある意味「負けたり傷付いたり諦めたり嘆いたり」した過去を温かく笑うような空気がある。歌に乗せて多くの人の声が乗ることで、その温かさはもっとリアルなものになると思います。だから、元々ライブをやりたい、という思いから始まった3rdライブという空間で、「ケーブルサラダ」が目指す世界観の完成系に触れたような気がしました。

色々大変なことを各自背負ってるけど、それはそういうもんだからと包んで、手叩いて声出して、最終的には笑えるまでは生きよう、と前を向くようなアルバム、で、ライブ。

 

そういう前向きな空気を一番強く感じたのは、コーリング・ロンリーの扱いです。あ、この曲こう来るんだ!と思った。「ケーブルサラダ」のなかでもトップクラスに情緒的な曲で、時間を経ることの苦味とか侘び寂びみたいな、ちょっと演歌のような哀調すらある曲だと思うのだけど、ライブだと明るい演出で楽しい空気の中で歌ってくれる。切なく歌うこともできるのだけど、そうじゃなくて一歩ひいた形で明るく見せてくれる。なんならファンサタイム。結果、皆ニコニコしてる。

 

神戸day1MCで夏川さんは「これまで結構いろんなことで傷ついてきたけど、最終的には笑っている」というような事を話されてました。これすごい好きな言葉です。

ケーブルスモンスターは、色々な感情や事情でがんじがらめになった我々を指して「ケーブルスモンスター」だと言い放つツアーだけど、過去の色々を忘れたフリをして無理に明るく済ます時間ではなく、クソが!とこれを蹴り飛ばす時間でもなく、そういうものを時折ちゃんと照らしながらも、しっかりと力強いパフォーマンスで気持ちを前に向かわせてくれる。

皆で一緒に傷に向き合っていくような流れがセトリの中にあるような感じがする。そして例えばササクレのような、激痛の中で体を捩りながら前に進むような歌を、凄まじい迫力で歌った後、歌い終わりで笑顔を見せたりする。

 

 

総じて、直接「前向けや」という説教くさいことを言われるわけではなく、セトリや演出、MCを勝手に補助線にして、勝手に感じ取っているだけなんですけどね。

 

ただ個人的には、夏川椎菜のライブにある「音楽的な、ものすごい激しさと楽しさ」と、「観客個人を刺してくるエモーショナルな要素」と、それらのバランスや距離感がやっぱり好きで、その感想は今回のライブで確信したものでした。単に曲を歌うだけの場ではなく、何かリアルな感情的な機微が通奏低音のようにあり続けて、MCやセトリの演出や、あるいは演奏の中のアドリブやパフォーマンスに導かれてそれがひょいと顔を出す瞬間がある。テーマに沿った物語演劇を見ている感じすら時々ある。

 

技巧的だと言うのではなく、良い曲を良い音で聴く以上の何かがそこに展開されている、と思いました。

それは夏川椎菜がちゃんと現在進行形の人間として、多分にぐちゃぐちゃした感情を持ちながら、それを隠さずにそこに立っているからだろうと。リアルな人が立っている、演出や演奏など色々な表現でそのリアルさが裏書きされていく、そのおかげで、自分の中のリアルな感傷を引き出されて、ちゃんと検分して前を向く。その時間が好きだなあと思いました。

 

眠れないけど寝なきゃいけない、来週もこのままかもしれない、どうせ周りは宇宙人みたいだし、べろんべろんになっていたい。

ぐちゃぐちゃに色んなものを抱えてきたことを臆せず口に出す人が歌うそういう歌の数々、「それでもやっていこうや」という歌を、同じくぐちゃぐちゃに色んなものを抱えてきたであろう人々がレスポンスする。ライブ終わりに「よかったなあ」と思う時、そういう景色がやっぱり頭に浮かぶわけです。

すごいドラマチックなライブだったなぁ、という感想です。

 

演奏とか衣装とか天才かよと感じるところは本当にまだまだたくさんあって、すっごく楽しいライブだったのは言わずもがななんだけども、行って疲れて、なんかサウナ後の「整う」みたいな、気持ちが軽くなるようなライブでもあったので、そこは忘れないでおきたいなと思いました。

千秋楽いきたかった。。

2023年触れてよかったものまとめ

 

例年通り、今年触れたもので「よかったー」と思ったものをまとめる記事。

よかったー、の基準は色々あるけれどもこだわって区分けはせずにつらつら書いていく。

区分けするほどたくさん触れていない、というのもある。

 

 

映画:

君たちはどう生きるか

youtu.be

IMAXで見る冒頭数分の映像の迫力で「ジブリ映画は格が違う」と思わされる。極端にいえば平面の絵が動いているというだけでここまで感覚を包み込んでくるような体験が得られるものなのか。アニメ映画の底力たるや。宮崎駿のイマジネーションも全く衰えることなく、特に中盤以降は全部の場面が新鮮で、奇妙で面白かった。

一方、公開後に「スタジオジブリ宮崎駿に関する自伝的な映画」という見方にたって、各所の描写をこれまでのジブリ作品のオマージュとか、登場人物をジブリの誰々になぞらえて解釈する論を多く見たのだけど、個人的には全然ピンとこなかった。自分の趣味全開の「紅の豚」を作って後、道楽のようなものを作ってしまったと後悔したとされる宮崎駿が、そんなに閉じた作り方をするんだろうかと。

基本的にはこの映画、「不思議の国のアリス」みたいだなと思ってみていた。訳のわからないものは、訳のわからないなりに何か道理がある。それをこちら側の論理で無理に解釈するのは限界がある。それでも、何か難しい時期に立たされている子供が異世界(あるいは現実ではない物事、虚構)に触れて回復し、しかしそこに留まって閉じこもるのではなく、再び現実に向き合っていくという話、つまりとても児童文学的な構造をもつ本作の中にあって、その意味不明さへ一々意味を与えずとも、全然ノイズにはならなかった。異世界の人々の手を借りて自分の問題にけりをつけて、汚くて醜くいことがわかっていても現実へ戻って行く話。そう書くとなんかエヴァンゲリヲンみたいだなと思うけども。

 

ゴジラ-1.0

youtu.be

やっぱりこの時代になっても国産のゴジラ映画を観れるというのは嬉しいものです。ゴジラ映画は食べやすくカットされた絶望のパッケージ化みたいなものだと思っている。バカにしているわけではない。スクリーンに広がる虚構という安全な世界の中で、破壊や絶望、歴史の暗い影を目の当たりにし、それを受け入れて立ち向かう勇気を与えるのがゴジラ映画なのだと。そう捉えると、たとえお涙頂戴であるとなじられたところで、やっぱりこれはゴジラ映画だ。

ところでこの映画、音楽の使いどころが最高で、例のテーマが流れる瞬間とあの海の映像が重なり合うと、どうしても平成VSシリーズで育った自分は東宝大プールと美しく壮大なあのシリーズの戦いの数々、そしてそれを包み込んだ平成の独特の空気みたいなものがミルフィーユのように重なってスクリーンから飛びかかってくる感じがして、情緒がとても大変なことになった。なんならあの数カットあんまり覚えていないぐらい。あれを見れただけで、見にいってよかったなあと感じた。

 

アルプススタンドのはしの方:

youtu.be

音に聞く通りの名作。甲子園の応援席の「端の方」だけを舞台にして、野球の試合そのものは一切映さないという演出が良い。主役になれなかった少年少女が、「仕方ない」という諦観を持ちながらも、この一試合の中で自分たちの役割や進むべき道を見つけていく会話劇。甲子園のような大舞台はわかりやすくドラマではあるかもしれないが、そうではない脇道にもしっかりと同じ質量をもったドラマが生まれ得る事実へ真剣にカメラを向ける。ともすれば映画や小説がドラマチックな人生に焦点をあてがちなところを、そうではない人生にも温かな眼差しとこれを掘り下げる努力を振り向ける。美しい映画だと思う。

それだけならまだしも、ここに見えないはずの野球の展開が絡んでくるのがまた熱い。これ、舞台で見たらすごいんだろうなあ。

 

キッズ・リターン

youtu.be

新作「首」がやるというので昔の武映画が観たくなって。でも結局「首」は観ていない。

大学生の頃に一度見たときも妙に印象に残ったが、ずいぶん経って見返すと、まあ残酷な映画だと思う。学生時代のどこか安穏とした場面にも、社会に出てからの厳しく冷たい現実を描く場面にも、どっちにもずっとヒリヒリした嫌な空気が漂っていて、ボクシングものでもあるこの映画はその空気を払うようにグローブを打ち込むバンバンバンという音を高速で響かせるけど全然それが払われていかない。

そして主役二人(実質は、タクシー運転手になった一人もいれて三人なんじゃないかと思っている)の現実に対して、暖かくもなく冷たくもない、「そういうものだよ」という眼差しがずっと向けられている。黒目の大きな瞬きをしないような目、という感じ。救いもないけど殺しもしない。まあでも人生ってそういうもんだよね。

しかし青年二人の、人生におけるわずかな時間を取り上げてこれを「人生の一側面」として生々しく感じさせるのは技ありとしか言いようがない。ボクシングジムなんていったことないのにそこで繰り広げられる諸々はすごく普遍的な「嫌な社会」じみているし。もっとも、青年二人がこういう空気の中を危うげに走っていく速度感、ボクシングの音、淡く青色の空、そういう感覚的なところが気持ちいいのも事実で、息苦しさの中でそういうものに救われるのもまた人生、という感じがする。人生なんて言葉この映画では全然使われないのに、やたらとそこへ思いを馳せてしまう映画。

 

菊次郎の夏

youtu.be

新作「首」がやるというので見たくなった昔の武映画その2。やっぱり「首」は観ていない。

これも時間をあけて何度か見返している映画だけど、見るたびにわかりやすくすげえなと思ってしまうのは後半のパートで、何といってただおじさんたちが遊んでいるだけの映像がまあまあの時間続くのに、それが映画全体をものすごく温かく包み込んでいくように感じられてしまうこと。遊ぶ、ふざける、もっと言葉を固くすれば「喜劇」というものがいかに人の傷をダイレクトに癒していくかを示してくれるし、後にも先にもこういう「ただただ遊んでいるだけなのに」、そして過剰な演出も全然ないのに、見た後に何かが救われた気持ちになる映画を見たことがない。

キッズ・リターンもそうなのだが、北野武の映画って一個一個の場面が静かにだんだんと組み上がって行って、最後に大きな一枚絵になるという印象がある。ゆっくりとした時間で紡がれる静かな絵が見終わった後にぴったり張り付いて離れない。

 

aftersun/アフターサン:

youtu.be

黙して語らず。最初の数カットで「この映画すごい好きかも」と思ったが結局その印象は最後まで変わらなかった。

父と娘のつかの間の休日を描いたこの映画は、父が背負っている影、あるいは傷、あるいは闇について、それが何かを最後まで示さない。それが物凄く良い。身近な誰かが抱えている辛さを、身近だから即時わかるというわけもないし、仮に知ることができたとしてその時の自分には受け止められないかもしれない。そういう人生の一側面を、美しくどこか懐かしい映像で丹念に丹念に説き伏せてくるような映画。何よりもいいのは、その時わからなくて救えなかったからといって、後々になって思い返すことである種の救いを自分の中で与えることも出来ると、言葉少なに説いているような映画だったこと。ただ悲しいだけの映画ではなく、過去を思い返すことで、過去何もわからなかった自分の代わりに相手に寄り添うことが出来ると、時間の入り乱れを許す映画ならではの手法で感じさせてくれる。

ところでこの映画、近い構造としてソフィア・コッポラの「SOMEWHERE」があり、オマージュっぽいシーンもあるからおそらくは参照しているのだろうけど、「父と娘のつかの間の休暇」というモチーフでアプローチが違うのも面白い。

 

レッド・ロケット:

youtu.be

監督の前作「フロリダ・プロジェクト」は、形容するなら明るい地獄のような映画で、貧困家庭の悲喜こもごもをカラッとしたトーンで仕上げた名作。そして今作も全く同じ方向性で、現実が詰みまくっている男の転落を笑いを交えてカラッと描いたやっぱり明るい地獄のような映画。

笑ってドン引きできるドタバタ劇だけにはもちろん留まらず、多分に構造的な要素を持っている映画で、旧世界的なマッチョイズム・男性性を失いかけている男の再奮起をコメディライクに描きながら、明確に時代設定をトランプ政権時のそれに設定しているところや、アメリカの熱気を失った田舎町が舞台になっているところ等、強く現代風刺的な要素を残している。「フロリダ・プロジェクト」も現代アメリカ論的な要素があったが今回も同様。でも「男性性を失った男が狂っていく」様を描く意味ではより普遍的かもしれない。

理想を持った人間は強くたくましいと取るのか、理想を持った人間の無様さを描くのか、ラストの観客に投げるような感じも好きだった。あのヒロインはあの後幸せになるんだろうか、ならないんだろうなあ。

 

くれなずめ:

youtu.be

数年ぶりに高校時代の友人で集まったら、死んだはずの同級生が普通の顔をしてそこにいた。と書くとホラーかサスペンスが始まるかと思いきやそういうものではない。皆、彼が死んだことをわかっているし、でもそれを正面から受け止めるにはやっぱり数年では足りなかったのだという、長い時間と後悔と寂寥と郷愁を時間をかけて解きほぐしていくコメディ。この「普通にいる」というのが本当に普通で、映画が進むにつれてこの普通をそのまま受け入れてしまいそうになるのだけれども、それはそのまま登場人物たちの心境に重なってくる。経験したことがないことをあたかも経験したように感じさせてしまうのが映画の魔法だとしたら、そういう言葉で語られがちなジャンルであるファンタジーでもSFでもアドベンチャーでもない本作はしかし、ちゃんとそういう魔法がかかる映画だと思う。

 

 

小説:

 

高瀬 隼子:おいしいご飯が食べられますように:

感想はこちらに。

嫌な空気だけが支配している小説でもないのに、じゃあ楽観的かというとそうでもない。おそらくは世の中の誰もが持つささくれだった気持ちの一片を整理整頓して言語化してくれた本作は、ただそういう風に整理をつけるだけではなく、読み手の感情の中にしっかりとその気持ちを再現させてくれるサービス精神旺盛な小説。でもこういう「嫌な気持ち」ってのも人間の大事な感情の機微の一つで、なんなら多くの人は気づいても無視をしてしまうタイプの機微だから、こういう風に拾い上げて残してくれているのはそれはそれで文学のなせる技です。

 

夏川椎菜:ぬけがら

再読。夏川椎菜のケーブルサラダが出るというのでもう一度読み直してみたけど、やっぱり良い作品だなと感じた。4つの章それぞれに別の視点から語られる中で、どんどんある登場人物の素顔が浮き彫りになっていく構成。気楽に読める小話じみた短編集かと思えば、全体の輪郭が露わになる中盤以降、ぐっと現実の重さ、辛さが刺してくる。この泣き笑いのようなトーンで、暗くなりすぎず明るくなりすぎず、どこか心に残るほの明るさは大人になればなるほど胸にくるものがある。

 

今村 昌弘:でぃすぺる

学校の七不思議×ジュブナイル×ミステリーという欲張り三点豪華盛りセット。この三単語だけでロマンしかない。ミステリーとオカルトが取っ組み合って紡ぐ物語は、すいすい読めて良い捻りが加わる前半、状況が込み入ってくる中盤と、面白さのフォーマットはミステリーのそれで通して行くのも読みやすくてよかった。多分さいごは賛否両論あるような気もするけれど、このテーマの3点セットで描かれる世界観はすごく好きなのでどっかで続編だか派生だかを読みたくなる。

 

呉勝浩:爆弾

映画「ダークナイト」の名シーンの一つはバットマンによるジョーカーの取り調べシーンだが、あの場面の面白さを抽出して原液から組み立てたような作品。連続爆破事件の容疑者と警察の手に汗握る心理戦と、巧みに仕掛けられた罠と謎の数々。いまの社会の根底を成す倫理観に揺さぶりをかけるような展開も含めて、個人的には良い意味でダークナイトの影響を感じた。あの映画が好きな人は多分これも好きだと思う。バットマンはいないけど。

 

佐川 恭一:受賞第一作

今年もっとも読んで惹かれた本の一つ。文芸賞を受賞しても受賞後の一作を書き出せない青年の人生を、過去・現在・未来、妄想・事実・感情がごちゃごちゃに混ざり合った独白文で、かつ強烈な速度で描き続く。句点がほぼ無く、だあっと濁流のように迸る文章の気持ち良さと、同時にそこで描かれる人間の俗っぽい気持ち悪さと、その気持ち悪さが決して彼岸のものでは無くどこか自分の奥底にも見いだせてしまう事に妙な安心感を感じる部分も含めて感情を妙にいじられる小説。

徹底的に孤独な青年の姿を描いた話なのに、読んでいる側はその姿にどこか孤独を解消されるような気になる。そういう時に、確かに良い小説を読んでいるという気持ちが湧き上がってくる。ほんとうに俗っぽくてくだらない、と言いすてる事はできる物語なのだけれど、その俗っぽさに救われる。

 

村上春樹:海辺のカフカ

感想は以前書いたが、数年ぶりに再読をして全然感じ方が変わった小説。お前の人生はひどいものになる、という呪いをかけられた少年はいかにしてこれを逃れて自分の人生を生きるようになるのか。そんな風に物語の筋を解釈すると、これはいつの時代もどんな場所でも普遍性のある物語だと読めると思うし、いくら物語の内容が奇妙で摩訶不思議だったからといって、決してそれを他人事のように感じることもない。いやほんとうに奇妙な話なんだけれど、確かに自分たちの物語だと感じさせる空気がある。あるいはこれが筆力というものか。再読を通して、村上春樹作品の中でも随分上位に位置づいた。

 

太宰治:晩年

全部を読みきれてはいないのだけれど、太宰治の短編は鋭いエッジとユーモアと悲哀がちょうどよく混ざり合っていて好きで、あと何より軽妙な文体が好きだ、と再認識する。どこか寓話っぽいというか、理屈っぽさがない。誰かの酒の繰言のようでもある。愚痴っぽくもある。でもそこに、自尊心から何かを取り繕うようなところがないから、読んでいてしんどくない。

 

小説の惑星:オーシャンラズベリー篇ノーザンブルーベリー篇

こういう作家による短編集ってお得感があるよなあ、という点で読んで良かった。一度にいろんなジャンルの作品が読めるのも楽しいが、やっぱりプロの「編集」ではなく「作家」が選んだ点で、どこか選び方にも作家性、悪く言えば「癖」のようなものが滲み出る。その人以外が書いたものを読んでいるのにその人の「癖」が見えてくるところが不思議な読書体験だと思う。伊坂幸太郎作品は軽妙洒脱にして巧妙というイメージがあったが、時折垣間見えるドロッとした嫌な空気も一つの個性だと思っていて、この短編集も「読みやすく楽しい」という体で編まれているがその実、この「どろっとした嫌な感じ」が要所要所でうっすら見える。その微妙な食べにくさも含めて小説の奥深さ、面白さであると感じた。

 

その他:

 

FINAL FANTASY XVI:

youtu.be

どうだった?と聞かれればいい作品だったよ、と答えると思うが、しかし自分の感性に奥深く刺さってしばらく、長くなれば数年単位で居残り続けるような要素があったかといえばそうでもない。でもそれはこの作品が積み上げているもの、特にこだわって作られたとされるストーリーが隙間だらけだったというのではなく、むしろ受け取る側、つまり自分の方の網の目が大きすぎて全部を拾いきれなかったんじゃないか、と思ってしまった。要は歳をとったということだ。確かにいい作品だし、細かくみればいろんな粗はあるとは言われているものの、それをがつんと無視してそれでも好きだった、と言えるほどに自分がこの作品の力強さについていけていないと感じる部分が度々あった。素晴らしい映像、厚みのある音楽、心地よい操作性、捻りと深みのある物語、開くたびに世界観を広げる設定などなど、いろいろいいところがあるのに十代でFFをやった時のように全てを拾いきれた感じがしない。十代の時にやりたかった。要は、歳をとったということだ、とちょっと悲しくなった。

 

TrySailのTRYangle harmony:

夏にTrysailのライブにいっったところこれがまあバカみたいに楽しくて、その流れでラジを聞いたらこれがまた毎回毎回バカみたいに楽しいのでハマる。だいたい毎回、良い大人三人が揃ってゲラゲラ笑うような場面がある。後から要素だけ取り出すと何がそんなに楽しかったのかわからないけど、その時の空気やリズムでキラキラ輝く応酬のようなものってあると思っていて、そういう時間をパッととらえる奇跡のような瞬間がよく起こるラジオ。三人が長いこと一緒に肩を組んでやっている、そういう時間の流れが背後にあるからこれが起こるのだろう。

 

ケーブルサラダ:

感想はこちらに書いた通りで、今年も夏川椎菜周りはずっと楽しかったが、そういう風に思い返すにつけ、然るべき時、然るべき形でハマったのだろうなと感じる。人生は楽天的に楽しいことばかりではないが、日々のほんのり影のついた泡沫を、あくまで「そういうこともあろうね」という明るい諦観に乗せて、しかもなお前向きに語る姿は、もっと若い頃の自分の人生観のアンテナにかからなかった。もっと深刻な、厭世的な方へ目を向けてしまった事だろう、人生の暗い側面の方がそうでない方よりわかりやすく目につくからだ。

人生は暗いばかりではないが明るいばかりでもない、どちらか一方に傾いた時にもう一方へ目を向けさせる事で却ってバランスが取れて歩きやすくなるのだとすれば、その補助をしてくれるのがコンテンツや、あるいは誰かの提示する世界観や言葉や立ち振る舞いで、そういうものに助けられながらなんとか我々は日々を泳いでいる。人生の泳ぎ方みたいなものをわかったふりをするなんていう大層なことはできないものの、しかし人生の明暗の片側にだけ目を向けて突っ走るほど無軌道な行動が叶わなくなった頃合いになって、ケーブルサラダのような明度の作品は心の隙間にピタリとハマった。

 

タイミングとか、ちょうどよかったのだろう。

そして同時に、そういうハマり方をするのは万人ではないと思うし、たまたま自分がそういう縁だっただけであって、他人にとってはまたそれが別の何かだったりするわけだ。至上というものはとても見つけづらい。無理に見つける必要もない。たまたま目の前に現れたものをたまたま好きになるという偶発性が楽しいと思えた年だった。

 

 

上を向いて歩こう。:夏川椎菜「ケーブルサラダ」と小説「ラフセカンド」

夏川椎菜の3rdアルバム「ケーブルサラダ」を聴いた時に、こういう景色を思い出した。

深夜の学生街のカラオケで、二次会だか三次会だかの延長戦で人の気配をそれぞれの個室の奥に感じるのに、通路の方は人気がない。ドア越しに音も声も削られて余韻や残響のようになった歌声だけが漂っている。深夜のこんな時間に歌っている人間はその瞬間、誰のことも別に好きではないか、あるいは自分以外の誰かのことだけを好きか、大体そのどっちかで、どっちにしても微妙に孤独だったりする。自由で、賑やかで軽やかな喧騒に隙間風みたいに寂寥感が刺してくる。でも、この時間のこの場所はそういうものだと分かっているから、ひどい気持ちにはならない。

どんな感じやねん、と思うが、言葉を置き換えるならこんな感じだ。

音の楽しさと、生きることの僅かな影と、それへの不思議な納得感。

 


喜怒哀楽を起点に展開する2ndアルバム「コンポジット」は秩序立っていながらも攻撃的なアルバムで、バンドサウンドを鉈のように振り回しながらその刃の軌跡で感情の色を描くような作品だったが、3rdは強いて言うなら「無秩序であることで、より穏やかになった」という感じ。前作より更にバンドサウンドに比重を置き、しかも夏川椎菜楽曲は基本的に歌と同等かそれ以上に演奏の存在感が強いこともあって、人が奏でる音楽の温度、演奏の体温や気分のようなものがひしひしと感じられるが、「自由にやったし、自由にやらせた」と言わんばかりに音の詰まり方や重なりが楽しい。

それでいながら最初から最後まで一つの綺麗な線が中央に走っているような聴きやすさがあるし、一方で穏当にまとまっていると表現するには、ゴロッとした塊のような感情的な要素の存在感も大きい。贅沢で器用なアルバムだと思う。

 

1曲目の「メイクストロボノイズ!!!」は袋にパンパンに詰めた音と言葉を一気にばらまくような勢いのある楽曲。続く「passable:(」の伸び伸びとした自由な演奏と肩の力の抜けた空気はそのまま「ライダー」の吹く風に任せるような気楽さへ重なっていく。と思えば「I can bleah」を挟んで艶やかでダークな景色が続き、「ササクレ」で一気に照明が当たるような開放感へ至る。出色は「コーリング・ロンリー」から続く三曲の連なりで、ここまでの楽曲の陰影を引き受けながら、寂しくも明るい世界観を大いに拡張してぎゅっと心臓を掴んでくる。

アルバム通して何か共通の物語性やモチーフがあるわけではなく、思うがままに好きな曲を好きにやった、というある意味とても素直な構成だが、後半に向かうにつれてそれぞれの楽曲の色が自然と連なって大きな流れを作り、異様な輝きを放っていく。
なんといっても、リード曲にして最後を飾る「ラフセカンド」に至ってはまるで「ハッピーエンドもバッドエンドも見た人でないと到達できない、トゥルーエンドのような美しさ」がある。あるいは、俗的な言い方をすれば夜明けの美しさ。ぐうっと心臓を掴まれるが、やっぱり最初からアルバムを通して聴くことで何倍にも光る終盤戦だと思う。

 

光るといえば。
「ケーブルサラダ」は自由奔放なバンドサウンドの楽しさが満艦飾のように続く。でもどこかにやっぱり暗さを残すアルバムだと思う。この暗さは闇深いとはちょっと違って、ウェットに世界や自分を嘆くのではなく、ドライに人生の不条理を突き放す時、人はただ笑顔ではないという意味の暗さだ。
「それはそういうものだ、仕方がない」「今日と明日はそんなに変わらない」「世界は急には動かないし、変わらない」「私は、昔の自分が志したような何者かにはなれていないし、なれないかもしれない」という言葉で置き換えられるような、世界や現実に対しての諦観。そういう暗さが曲の各所にのぞく。
ただ、例えば「エイリアンサークル」では「他人なんてどうせ理解できない」という諦めをそのまま「皆どうせ宇宙人みたいなものだ」と歌っても、それは決して引きこもるような悲観で着地させない。斜に構えて嘆くわけでもない。「まー、そういうもんだよね」とそのまま受け止める。暗さはあっても闇ではないのが、このアルバムの特徴で魅力だと思う。

 


明るいのに暗い。でもその暗さは明るさを損なうものでもない。完全生産限定盤付属の短編小説「ラフセカンド」もそういう趣がある。

個人的には、作家としての夏川椎菜の良さは既に「ぬけがら」でぎゅっと詰まったものが見せられているので、アルバムと同じぐらい小説の方も楽しみにしていた。見方を変えれば、9000円以上出して新刊を買ったようなものです。

そういうわけで、以下はバカ長読書感想文になる。

 

作家も色んな種類がいると思う。語彙の選択で世界に新たな視点を与える人もいれば音楽的な文の流れでそこにしかない時間・空間を紡ぎだす人もいるし、誰も見たことがない奇想天外な物語で胸踊る体験を与える人もいる。

そういう中で夏川椎菜の小説は、素直な、独白のようなまっすぐな文体を用い、見たことない景色ではなく「よく知る風景」を語る。自宅から最寄駅までの道ですれ違う誰かが主役になったような物語だが、そういう一般的な景色に感情や詩情を乗せることができるのは良い小説の為せる技の一つでもあるし、そうさせるための「物の語り方」がとても良い。

何をどの順番で語れば手元の要素を最大出力で相手に渡せるか、という点は、例えば「ぬけがら」の「章を追うごとに全体像と、一個人の感情が浮き上がって見えてくる」感じなんかにも表れていて凄く好きだったが、今回も例に漏れず巧みに練られている。

 

今回の「ラフセカンド」収録の小説はそれぞれ、既存の楽曲をモチーフにしている。と言いつつケーブルサラダのリード曲である「ラフセカンド」はなぜか含まれておらず、既存楽曲でも直接的にモチーフをなぞったのは「だりむくり」ぐらい。

表立っての特徴でいえば変化球尽くしだが、しかし通して読むと、曲と小説では別の世界観であっても同じ空気がはっきり流れているし、かつ3つの小説たちの中にも同じ空気があるし、なんなら名を冠していなくても「ラフセカンド」とも同じ空気が流れていることが分かるという、実にうまい具合に納めてくる。

 

この空気は何かと考えてみると、なんとなく、ある種の閉塞感ではないかと思った。あるいは、世界の操縦桿を自分がもう握れていない、という諦め。

「だりむくり」の主人公は、昆虫博士になりたいと感じた子供の時の自分と残業帰りで公園で飲んだくれる自分を比較する。「ササクレ」の先輩は自分のための音楽ではなく金になる音楽へ進んでしまった相棒への気持ちを整理できていないし、「passable:(」の劇作家は本当は完全新作が作りたいのにリバイバル劇ばかり作っている今の自分への焦りや苛立ちを抱えている。どれも、理想が「現実」によって、一つ一つ時間をかけて無力化されていく姿が、あるいは無力化された後が描かれている。

世界が波ならば、それが自分を打って引いていくたびに体を砂のように削り取っていく感覚。理想が突然破られるのではなく、徐々に時間をかけて消えていく感覚。なんだよ、と小さく毒づきたくなるようなものが積み重なっていって、気がつくと身動きができなくなり、自分の意思がなんだったのか、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。恐ろしいことだ。同時にそこには理想を、現実の手の及ばない範囲で遊ばせられていた時代への郷愁が、残り香として強く漂う。

 

こういうヒヤリとする、かつ妙に生々しい瞬間が、夏川椎菜の小説にはある。

「ぬけがら」ではちょっと仲の良くなったアルバイトの子がふっといなくなってしまった時のやるせなさや、学校では評価されていたのに社会に出たら全然通用しなくて擦り切れていく姿に。字数の限られた歌詞でないからこそ、克明に、丁寧に記されていく。

誰を打ち倒せば済むという話でもない。政府や学校や偉い人をどうにかすればいい話では当然なく、強いて言うならそれは「今」という世界をいかに処するかという自分の人生との折り合いの付け方でしか解決できない。相手がいないのだから、反抗的な、行動的なロック魂では到底戦えず、現実を睨むだけではしかし、現実は動いてくれない。だから、そういうもんだよな、クソ、と蹴りをつけ、せめて「笑えるまでは生きようかい」と、上を向くのだろう。

 

だから、「ラフセカンド」には、何かになろうと思って敗れた人たちが、まるで夜風の中にその熱量の火照りを確かに思い出すような瞬間がちゃんと刻まれている。
といって急に何かが変わるわけではない。明日や来週に世界が自分の意のままに激変することはない。どうせそうだ。そう諦めてしかしなお、熱意の火照りを思い出せたことには僅かな希望が生まれるし、それであればこそ、「忍び寄って自分を削り取る明日」が「遠くいつかの変化へ通じる第一幕」の明日になる。

小説「ラフセカンド」は、現実的で暗いがしかし、それを結論にはしていない。楽曲の「ラフセカンド」のように、現実を引き受けつつ、粗い道を走るための燃料をそこへ置いていく。

 

楽曲「ラフセカンド」ではつまづきや遠回りのある人生を、「素晴らしきかな我が人生」と歌う。

小説「ラフセカンド」内には「愛すべき過去と一緒に、今を生きている顔」という表現が出てくる。

どちらも、曲と小説の中で、一番ぐっと光る場所に配置された言葉で、ストレートで眩しくてとても良い。

 

「ケーブルサラダ」は散らばった配線がぐちゃぐちゃになっている様を指すドイツ語の「カーベルザラート」からきているらしい。散らばったぐちゃぐちゃな配線を、「今」の頭の中や感情の比喩だけでなく、現実と折り合いをつけるために必要な膨大な紆余曲折とも捉えられるかもしれない。

夏川椎菜を追い始めたのがCultureZ以降なので本当につい最近なのだけども、デビューから数えてここに至るまでに色々あったことは想像に難くない。アルバム「ケーブルサラダ」は、模索の果てに見た方向性の一旦の結論として、悲喜交々のごちゃごちゃを自由奔放な表現に乗せて開放し、諦観を抱えつつも歩いていく姿を示した。

同時に、今へ繋がる「これまで」の過程も意味に潜めて「ケーブルサラダ」と記し、そこに過去へのアンサーとこれからの宣誓として「ラフセカンド」を配した、、なんていう見方も出来てしまう。それくらい、明るくて何より「強い」姿勢のアルバムだった。

 

 

鮮やかなカーテンが風に翻った一瞬で暗く濃い谷間を見せたところで、それはまあ、別にそういうものなのだ。人生を指してそう感じられるようになるには、とはいえ日々の悩みは消えないし問題は生まれ続けるしでやっぱり時間はかかる。それに、明日は今日とどうせ大して変わらない。それでも、いつだって時間は巡って明日はやってくる。めでたいことに。

50分弱のアルバムと80ページ弱の短編はどちらも決して長大ではないかもしれないが、そんな風に感じられるような、どちらも深くて濃い作品だった。

 

オレオレ、オレだよ、絶望だよ:ゴジラ−1.0

ゴジラさんも数えれば70歳である。それはそれは色々な役回りを演じてこられた。

 

戦争や震災の象徴、悪を打ち倒すヒーロー、かと思えば悪辣なヒール役、エトセトラ。子供向けから大人向けまで縦横無尽に立ち回り、「原爆実験の影響で生まれました」の前口上さえ名乗っておけばある程度の演出の幅は許容されるところが偉大なスターの懐の深さでもある。ハリウッド版のエンドクレジットで「Godzilla as himself」と表記されたのもさもありなん、ゴジラは映画によって様々な顔をする名役者その人である。

 

で、今回のゴジラは何かと言えば、絶望を身一つで体現してくださいという演出オーダーをつけられた。ホームグラウンド、ニッポンでの久々の勇姿。お手伝いさせていただきますと名乗りを挙げたのはゴジラ好きでも知られる山崎貴監督で、VFXの名手の顔と「ALWAYS 三丁目の夕日」「永遠のゼロ」等々で日本人の琴線を鳴らしまくった二つの顔をもつ名将。結果的に本作は「ゴジラさんへの惜しみない敬意と愛情」と「日本人のトラウマをくすぐりながら浪花節を聞かすマス向けドラマ」がぶつかり合い、溶け合ってそれでどうなったか。シン・ゴジラのような異常な鋭さこそ無いものの、ゴジラ映画らしい「エンタメと内省」を現代に沿う形で整えたバランスの良い名作になっている。実際、シリーズでこれが一番好きって人は出てくるんじゃないだろうか。

 

 

そういう風に書くとなんだか柔らかく受け止めやすい映画に見えそうだが、実際のところ、IMAXシアターの座席でその迫力と絶望感に縮こまるようにして見ていたから、容赦のない映画でもある。今回のゴジラはまたこわい。「また」、怖い。またか。

 

シン・ゴジラの時も怖かったが、しばらくマス向けゴジラ映画は「怖い」でいくらしい。しかもシン・ゴジラが、ただ異様な何かがぼうっと突っ立っているだけで怖いというある種幽霊的な怖さだったのに対し、今回のゴジラはむちゃくちゃに暴れ回る手のつけようがない動物の怖さだ。ファーストショットから「コイツァやべえ」と感じる堂々の暴れっぷり。こちら側の都合とか脈絡とか全く考えず、スクリーンに飛び込んできて大暴れする。

ゴジラ映画ですから、こう、出てくる時はですね、まずあのテーマ鳴らしますんで、山からぬっと顔出していただいて」みたいなことは全く気にしない。ゴジラの放し飼いである。

 

いい意味で伝統芸はどこ吹く風だが、そこはゴジラ好きでもある名将山﨑貴なので、従来のゴジラ「っぽさ」をうまく変化球にして驚きを与えつつ、皆が見たいゴジラの良さは完璧に抑えてくるから憎めない。一歩間違えればジュラシックパークジョーズになるところを、絶妙な塩梅で「ゴジラ映画」に引き戻してくる演出のうまさ。生き物っぽく見えたかと思えば予想もつかない形でギョッとさせられて、やっぱり既存の動物や生命とは一線を画しているのだと思い知らされる。ゴジラ映画とモンスターパニック映画の線引きがどこにあるかといえば思うにそれは「神聖性」で、血肉の通った生物ではなく天災や運命が手足と尾鰭を持って叫ぶ怪物になっていると感じさせられるその見え方である。当たり前だがマグロとか食わない。この映画のゴジラはモンスター的に大暴れはするが、「何食って生きてるかは分からん」し、そういう想像を抱かせない程度には神聖さが剥がれ落ちていかない。

 

あの、なんか背筋がスッとしてるのが気持ち悪いのだ、今回のゴジラ。その足元で、人間が、復興直後のようやくコンクリートが敷かれた銀座の地面につんのめりながら逃げている。そうでなくても皆、今日を生きることで精一杯で前を、上を向くのに大変な苦労をしている。神木隆之介が「こんな時なんだからしょうがないだろう!」と言うことをよく口にする程度には、混迷・混乱・困惑の時代。皆が下を向いて当然の時代。なのに、ゴジラだけはそんなの関係なく背筋がシャンとしている。これが怖い。狂ってしまったのは人間の方で、ゴジラの側は特に狂ってるわけではない。これが本能で、正である。正しく暴れて人を殺しにいく。怖い。

 

 

ゴジラが良い、だけならゴジラ好きの映画というだけで終わるが、この映画は人間ドラマでも勝負をかけてくる。シン・ゴジラとはそのへんは全く逆。徹底して市井の人間の物語を描いている。人間ドラマ部分は、ジャンルとしての好き嫌いは分かれるかもしれないが、ゴジラ映画に人々が求める内省的なところはこれまたちゃんと抑えてくる。

 

今回は戦後すぐを舞台にしていて、戦争と敗戦、その後の泥水を啜るような過酷な現実という大状況と、そうした中で個人が背負いこむトラウマがモチーフになっている。実際、ゴジラを抜いてもある程度成立するような気がするが、ゴジラという分かりやすく絶望的なキャラクターを中心に置くことで、個人の物語がより悲壮に、壮大に、迫力を持って迫ってくる。

 

基本的には皆、傷ついているところから始まっていく映画だ。だから役者の躍動がすごく大事な映画でもあったと思う。神木隆之介が繊細さと頑強さをブレンドしたしなやかな演技でこの辺のテーマを一身にうけとめつつ、浜辺美波のしたたかさが伴奏する。他、安藤サクラの人間描写の奥深さも素晴らしい。個人的によかったのは吉岡秀隆で、柔らかさと明るさ、同時にこの映画の数少ないコミカル要素も担いつつ、要所要所で「この人も戦争を経験しているんだ」と感じさせる暗い影が見えたりする。

 

全体的に説明的な台詞や演出が多いと言う指摘は否定できない。その部分をザクっとぬけば確かにスマートにはなるんだろうなと思う。でも、この映画の陰影が質感そのままに届く層はグッと狭まるだろう。汲み取らないといけなくなる。だからこの辺は、より多くの観客に届けるための技と感じてあんまり気にならなかった。

 

 

初代ゴジラの何が優れているかといえば、陰影だ。映像的な影はもちろんだけど、原爆実験を種火にしてゴジラが燃えて立ち、呼応して国が背負う影、個人が背負う影がドラマの中で黒く延びて重なり合っていく。それこそがスクリーンを濃く塗っているようにさえ感じられるあの陰影。カラーだったらあの異常な迫力は出なかったんじゃないかと思うが、それはひとえに色彩表現的な問題というより、ドラマの暗さを受け止めるのにモノクロが強い効果を発揮しているからでもある。

初代ゴジラはそれくらい暗いし、それが良さでもある。戦争のトラウマをゴジラの異形に象徴させつつ、重ね合わせるように人間個人単位の業もドラマに投じ、二つが独特な苦味となって合わさっている。

 

そして、初代ゴジラをさまざまな点でリスペクトしている今作が、そのドラマの悲痛さで胸を打つのは、リスペクトの結果か、監督の十八番を正しくこなした結果かは分からないが、この構造をなぞった部分が大きいと思う。それは、自信や威厳や勇気という人間個人としての精神や、富や遺産や文明のような人間集団としての資産を、前触れなく薙ぎ払っていく天災的な状況が降ってきて、それによって人生を狂わされた者立ちが、自身の人生の狂気や異常に個人的な蹴りをつけにいくという物語だ。今回の映画はある意味で戦争映画だけど、戦争論反戦映画という枠に収まらずに令和のこの時においても観客の中できちんと展開する物語になるのは、戦争以外のあらゆる理不尽な状況との戦いと、この映画の葛藤が地続きだからだと思う。

 

ゴジラは、基本的に人間がまず、負けるところから始まる物語だ。どうやったってあんなのに勝てるわけがない。その「勝てない」、打ちのめされる、屈服させられる、破壊される、という暗い体験は、やっぱり戦中戦後の歴史的事実に呼応するところがある。ゴジラ映画を見る時、迫力と勇士に喝采しつつ、心のどこかで合掌してしまう。ゴジラは、そんな不思議な暗さを見るものに与えつつも、映画という必然的に現代と結び付かなければならないメディアの中で進化し続けたことで、その暗さを含めて愛され、継承され、記憶に残り続けてきた。今回のゴジラは、そうしたゴジラ映画を見る人の心の機微を捉え、見る側がもっともそれに気づき、感応できるように「戦後すぐ」を舞台においた意図もあるんじゃないかという気がしてならない。

 

やっぱり、「生きることの絶望」に対して直接的な距離を持つ映画だし、その題材を演ずるにあたってゴジラは優れた役者だった。

忘れていた絶望を定期的に思いだすことで、今の現在地を確かめることができるのであれば、やっぱりゴジラは再び海からやってくるのだと思う。

 

今回のゴジラはちゃんと怖い。席に縮こまるようにして見たし、子供が泣いて退出する場面もあった。その恐ろしさと、恐ろしさに打ち勝つための人々の葛藤を、映画館で皆で見るという体験それ自体が、ゴジラ映画らしい体験だとも思う。

 

我々はいつでもどんなときでも熱く奮起することができる、というある種ベタベタとも言えるメッセージに強い説得力を与える芸歴70年のゴジラさん。絶望を一身に体現した名演すばらしかったです。

 

 

(ほぼ)何も知らずにTrySailのライブに行ったこと

 

ほとんど何も知らずにTrySailのライブに行く。

 

とか言いながら実際はツアー中に2回も行っている。1回目ほぼ何も知らなかったのは事実だが、ライブ始まって最初の3曲ぐらいで「これはもう一周したい」と感動し、終わってすぐ追加公演を予約。1ヶ月後、幕張は最終公演の地に立っていた。まんまと、という感じで。

 

 

元はといえばCultureZ以来の夏川椎菜のオタクだが、それでTrySailを知らないというのは、「松本人志は好きだけどダウンタウンはよく知らない」とか「アイアンマンは好きだけどアベンジャーズは見たことがない」みたいな話で不徹底である。そんな自覚を友人に話したら、お前それは物事の一側面しか見ていないに等しい、いい大人がそんなんじゃならん、ちゃんとユニットの方も見なさいと諭された。そんな折にライブが決まる。どこかの動画で夏川椎菜が「知らない人も楽しませる自信がある」と謳う。夏川椎菜がそう言うなら間違いない。

 

で、初TrySailはどうせなら初見でぶん殴られてみたかった。どうせ知らないなら、いっそ何の構えもなく、衝撃をそのまま浴びてみようと思った。

実際のところ、最新アルバムのSuperBloomを通して聴き、THE FIRST TAKEをみたぐらいの知識で臨んだ。我ながら不遜なもんだと思う。

殴られた結果がどうだったかは先述の通りです。

 

 

TrySailの三人がどれだけ良かったかみたいな話はいろんな人が言葉を尽くして語ってくれるだろう。「すみません、ちょっとお邪魔します」みたいな感じだった自分の解像度はたかが知れてる。

もちろん色々感想はある。居心地の良いライブだった。アットホームで穏やかで、TrySailはど直球王道のアイドルソングを歌いながらもどこかユーモアがある感じがする。ぺろっと舌を出す感じ。三人が三人ともバランスよく、いい意味で遊ぶように絡みながら歌ってるからかもしれない。それでいてかっこよく締めるところはバシン、と空気を鳴らして締める。でもそこに傾きすぎない。ゆとり、遊び、笑いみたいなフワフワした心地よさをまとわせてはしゃいでいる感じ。

 

雨宮天は剣みたいにかっこいい美人なのに客席に手を振る姿が10歳の少年のようで眩しいなあ、とか、麻倉ももの、遠くを見晴かすような目で歌う姿が凛としてかっこいいなあとか(麻倉ももは「凛」とする瞬間がものすごくかっこいい)。動く夏川椎菜MAKEOVERとベストナンしか知らなかったので、虚空を蹴り上げるロックな姿ばかりを壇上で見ていたから、他の2人を引き立てたり客席を煽ったり、いそがしく立ちまわりながらも決して存在感が崩れないところがすごい、器用だなあとか。

 

などなど。うんとある。

 

うんとあるが、実は一番よかったのは、オタクがよかった。ここでいうオタクは最大限の敬意を込めてあえてこう呼んでいる。

オタクにすごく感動した、とは新参以外に出てこなさそうな言葉だから書いとこうと思う。

 

幕張は3階のアリーナ席で全体が見渡せた。この席が良かった。会場の照明が落ちて、真っ黒い人波の中に星のように散らばる3色のサイリウムの光が恐ろしく綺麗だった。それぞれ細かく振られて、遠くからだと震えているように見えるのだが、壇上の三人が照明に照らされると、これを合図に一斉にブワッと吹き上がって宙を打つのが、また恐ろしく綺麗だった。熱風をうけて人間が光っている。三人も当然光っているのだが呼応して会場全体も光って、湧いて波になっている。

 

そういう光景はこれまで、いろんなライブであったからなにも特別なものじゃないと言われそうな気がするが、いやあれは特別だった。少なくともここにいる人たちにとってはとても特別だった。みんな長いこと長いこと、いろんなものを溜め込んで、その内圧を限界まで高めて、大事に抱え込んでこの場まで運び込んでいる。コロナは長かったし、声出しもできなかったし。

その内圧が放たれてすごい高波になって、これに揉まれながら直射日光を固めたような元気の塊をお互いに投げつけ合うようなライブだった。なるほどライブは皆で作るものですね。自分が受け取った凄い!という感情の半分ぐらいは、だから、オタクの皆さんの熱気に由来している。あるいは、皆さんが待ち続けた時間、焦がれ続けた時間、重なりあって熟した気持ちや気分の爆発に由来している。

 

そしてなんだか羨ましかった。このユニットは、もう長らく航海を続けていて、この瞬間は、長く続いた時間の一番、最先端にある。振り返って見える時間を航跡だとすれば、扇状の広がりの中に様々な波や泡が濃淡に染まって広がっている。時間の先端にこの瞬間がある。

ちょっと覗きにきたような自分は、この背後に広がる特殊な時間の厚みや様相はわからない。追っていけばその分、これからを見えるのかもしれないが、それでもちょっと羨ましさがある。

特に最終公演は、MCもあいまってそういう、時間と期間のことをたぶん多かれ少なかれ、誰もが考えるようなエモいライブだった。このエモさを正面から最大の解像度で見れるのは特権だと思う。暗闇の中を走ってこの先端の時間まで並走し続けたオタク諸氏は、間違いなくこの特権を誇っていいと思う。

 

思い出。Sunsetカンフーがすごく好きで、何が好きといってサビの「カンフゥ」のパートがめちゃくちゃ好きで、ライブでも楽しみにしていたらここが観客歌唱パートだった。予想外で笑ってしまった。ああ楽しいライブだったな。

 

 

優しくてか弱くて可愛くてうざい:「おいしいごはんが食べられますように」

 
職場ものである。そういうジャンルがあるのかどうかはわからないが、便宜的にそう呼ぶ。仕事ものとは少し違う。仕事の興奮やドラマを描くのではなく職場という小さい、限定的な世界のささやかな感情の揺らぎを掘って掘って掘りまくるタイプの小説。その掘り方が豊かで、ともすれば寂しいとされる心を書いているのに、不思議と読んでいてぐいぐい心が動く。

おとん、わからんて:aftersun/アフターサン

「aftersun/アフターサン」を観る。

父と娘がつかの間の休暇を楽しむために旅に出る。どうもこの親子は一緒に住んでいるわけではないらしい。だからこの旅行は久々に父が娘に会えるまたとない機会でもある。娘は無邪気である、ビデオカメラでお互いを撮ったり、撮らなかったりする。旅先の海辺のホテルでの時間はゆっくりと流れていく。

「aftersun」のあらすじはこんな具合でサラリとしているのに、観ているとなぜか恐ろしく傷つく。

youtu.be

続きを読む