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【ネタバレあり】それでも「まだ」刑事やってます: 踊る大捜査線N.E.W

初日に見てきた。サントラを聴きながら思い出しつつの雑感。

 

ネタバレあり。ちなみに私は踊る劇場版シリーズだと、OD2>OD1=ODNの順ぐらいです。でもほぼ僅差です。

 

 

 

 

以下感想。

 

 

 

 

 

・最初のセブンベアのアニメーション、無駄に作画良くて笑う。意味わからんところにお金かけてる感じがして「あ、踊る始まったな」と感じた。冒頭に事件と一件無関係な映像流して後々の展開に効かせてくる演出といえばOD2。OD2ほどの繋がり方はしなかったけど、セブンベア自体は好き。

 

・冒頭の湾岸エリアから始まった空撮が1カットでぐーーーっっと都会を眺望して都庁までいたり、這うように下降して身代金持った安住さんへ、、という流れでもう大満足した。本広節ぃ。

 

・このアバンタイトルのくだりは超満足だった。ハイテンポな音楽と機動的なカメラワーク、群衆を使った情報量のある絵作り、どたどた走る青島を追随する緊迫感のある警察側の実況、矢継ぎ早に投入されるシリーズキャラたち。犯人の正体の時点で「あ、これ定番のすかしかもな」と思ったがそれでも楽しめた。踊るはオープニング映像をすごく楽しみにしているところがあるものの、今回ほぼそれなし。オープニングないのはだいぶ思い切った判断だけど、逆に「新しいシリーズ始まる」感があって良いです。全編通じて一番アドレナリンがどぱどぱ出る場面だった。シリーズキャラの大量投入は主にこのアバンに集中していたけど、各自にちゃんと役割と見せ場があったのも良い。

 

・神木隆之介ってヒット祈願のげん担ぎみたいになっとるな。

 

・この映画、正直、プロット周りで言ったら本当にツッコミどころまみれになってる。真下の息子さすがにその経歴でこの規模の現場束ねないだろとか、雪乃さんナチュラルに捜査会議入れないだろとか、真下そんな大事な機密事項をなんで青島に任せる、、みたいな細かいところはキリがないし、「こんな事件が起こった!蓋開けてみたらこんなでした、ズコーー」みたいな展開が何度も起こるし。毒性ウイルスの着地の仕方とか意味わからんかった。なので、減点法でみてはいけない。

 

・そもそもが踊るは「ずーーっと何かが起こっている」という、事件の幕の内弁当みたいな構成をとっていたのが、OD1はまだお仕事ドラマとしてリアリティがあったところをOD2以降徐々に「お仕事ファンタジー」になっていった。結果、「作劇においてどんな意味があるのか全然わからないし、リアリティにも乏しい出来事が延々と起こっていく」という自家中毒みたいな状態になってしまった。しかも、警察ドラマで、かつ映画でやる以上、ミステリーやサスペンス的な要素を織り交ぜる作劇にならざるを得ない。結果的に、コメディにもサスペンスにもミステリーにもなれない、炭酸の抜けたビールみたいな状態になってしまっている。

 

・ただし、踊るはそこで真っ向勝負するわけではなく、オフビートな総合力で勝負かけるところがあり、今回は「コメディもサスペンスもグダるしツッコミどころも多いんだけど、キャラクターの個性やドラマと、固有のテンションだけは譲らない」という姿勢に、「シリーズの歴史を重ねたお祭りムービー感」をブレンドすることで足元を保ってるという感じ。なので「楽しい」というところは死守しようとしている感じがしたし、実際に楽しい。整合性があるかどうかは脇においても。

 

・キャラクターは今回とても良くて。特に新キャラクターの面々はすぐに好きになれた。全体的に、単一のキャラだけだと印象が残らないかもしれないが(印象に強く残るのは佐藤二郎ぐらいで、やっぱり好き嫌いはあれどうまい)、みんな誰かとのかけあいが加速すればするほど個性がどんどん滲み出るタイプのキャラクターだと思う。

 

・真下勇気君は、キャラ設定だけだとギャグみたいな役どころなのに、物語が進むにつれてどんどん応援したくなってくる難役。佐々木蔵之介は重厚感の中に悲哀と渋みがあって、決して悪い人ではないのがわかる。演技が入ることで血の通うキャラが多い。

 

・謎の女子高生二人は早々に犯人だとわかる構成。最初は「いくらなんでもそんな若者いねえだろ」という気持ちがしたのだが、巡り巡って本作での重要度がすごく高いキャラな気がした。

 

・この二人の行動には筋が通っていないし、既存の考え方では筋を通すことができない。つまり、従来の思考の枠組み(捜査)では解釈ができない不可解な存在で、この「新しいタイプの不可解さ」に対して、「過去のレガシーの集積」と「新しい手法」の両輪で挑んでいく、という話になっている。重要なのはそのどちらか一つでもないこと。純粋な裏どり、足で稼ぐ力、昔いた組織で同僚から聞いた知識、昔の先輩の教え、そしていなくなった人が託した新しいフレームワークといった「受け継がれていく」ものと、ネットや口コミといった新しいタイプの手法。その二つが決め手になる。この女子高生二人はそのまま「新しい、不可解な世代」の象徴でもあると思うのだが、それを解釈するための手段を「レガシー」でも「新進気鋭」でもどちらでもなく、「両方」に価値があるとするのはとても好きなメッセージだった。

 

・ネットにだって真実があるんです、というセリフは意外性があって好きだった。正直、逆にいくと思っていた(ネットに真実はなくて、足で稼いだ事実の方が価値があるんだ、みたいな)。

 

・本作はこれまでのような「組織論」を声高に語ることはあんまりしていない。正しいことをしたければ偉くなれ、と言っていた踊るシリーズが「上にいかなくたって、正しいことはできる」と言い切るし、所轄と本庁は(青島の存在もあって)今回の事件についてはある程度、最初から融和して動いているようにさえ見える。どこで働くかではなく、どう働くか、どんな思いを持って働くか、に焦点が強く当たっている。

 

・今回、まさか踊るで泣くと思わなかったのだが数えたら3回ぐらいボロボロ泣いていた。それはODシリーズが描いてきた「組織のあり方と葛藤」について、、ではなくて、もっと個人的なところだった。青島の周りからはどんどん仲間がいなくなっていく。やめていったものもいるし、離れていったものもいる。青島も「お前のエンジンはどこにある」と聞かれて答えに窮する。室井さんがいなくなった後、本気で辞めようと思った青島は、なぜ働いているのか確信が持てなくなってきているのだと思う。

 

・室井さんと最後に話した時のことを語る織田裕二の演技、その流れからの辞表のぐしゃぐしゃっぷりはものすごく良かった。あんな泣ける小道具あるのか。美術の方へ大拍手したい。あの辞表のぐしゃぐしゃっぷりで、青島の葛藤の深さと長さが一瞬で映像的にわかる。すごい。

 

・そこでいうと休憩室のベンチにもたれて座る青島の、背中の空白がはっきり画面に印象的にうつるレイアウトとかすごい良かった。ドラマ版だとあの座り方したら、後ろにすみれさんがいたり、室井さんがいたり、するもんね。青島は絶対孤独なのに、このドラマで「孤独です」みたいなことをほとんど口にせず、いつもの青島を表に描いて、節々に演出で語る手法だったのはとても良い。こういう側面は踊るシリーズあんまりなかった気がするが、ここへきてとても効いた。

 

・そんな青島が若手たちと事件に取り組む中で、若手を感化し、その姿にまた気付かされる、というエネルギーの送り合いがこの映画の後半にある。はっきりとその辺をセリフでは出さない部分がまた粋。

 

・だってさ、働いてりゃ、仲の良かった同僚がいなくなったり、やめていったり、尊敬していた先輩がどこかへ行ってしまったり、みたいな瞬間はあるわけじゃないですか。どういう気持ちで目の前のことに向き合っていけばいいかわからないわけじゃないですか。そこへ行くと、真下Jrは超孤独だったわけで、そこへ向けての「正しいと思うことをやれば、いつか絶対幸せになる」ですよ。青島、この言葉を多分自分に向けても言ってるよね。ここの織田裕二の「ぜっったい」の言い方素晴らしかった。

 

・この辺で「あ、もうすみれさん出ないな」と思ってきた。出る必要がない。TVシリーズ、これまでの映画を通して組織と戦っていた青島は、今、過去の時間からくる孤独と戦ってるんだなと思うと、過去に強く属する人を視覚的に出して支えちゃダメなのよね。

 

・ただし、すみれさんと、そしてその課長の中西さんも、その知識をレガシーとして託していたことで青島たちの捜査を進展させる助力になっていたので、この「いないのだけど、力を貸している」感よ。

 

・そこで言えばAI和久さん。これ相当賛否あるのだと思うけど、個人的には結構ギリギリのラインで、あとちょっとエモがる演出だったら受け付けなかったかもしれない。全員の反応が「おお、似てるね」という感じで、あくまで和久さんではなく、和久さんを模倣した別物として扱っていたから。しかしこれも、元を辿れば湾岸署面々が残したデータが今に至って力を貸してくれる展開。

 

・夏美さんは出たので嬉しかった!!青島と絡みないけど。アバンに出なかったからもうダメかと思ったけど、引っ張ったねーーー。

 

・完全にこの辺から「過去の踊るシリーズ」のような、組織論、上層と現場の縦割りの話というより、「新しい方」を向くためにものすごくもがく話として見ていたので、台場がクライマックスになった時に、「あ、湾岸署はでないな」と思って見ていた。でもちゃんとカタルシスがあった。

 

・本作最大の立役者はイマーシブフォート東京。大拍手。物理的な建物の使い方とドラマの重ね方の点でこんな使い方あるんかと。やったね刀。

 

・イマーシブフォート東京の場面は、①:施設の特性上、怪しい奴がゴロゴロいても違和感がない。②:警察の捜査挙動自体が施設内の演出として誤解されるがゆえに無力感がすごい。という緊迫感の演出に加えて、③:テーマパークという特性上、景色を徐々に非現実的な風景にシームレスに移行できる、という演出上の利点もある。クライマックスの映像が流れるのはこの③の特性が前振りになっていないと相当トンチキだった。実際のところ冷静に考えたらトンチキなんだけど。

 

・あの映像は泣くでしょう。周りも号泣だった。あれは、シリーズの映像に仮託して個々人がこれまでの仕事を振り返るような、そんな時間だったようにも思う。正しいことのために仲間と戦っていた日々が褪せた光の中に次々に浮かび上がる。

 

・「仲間の不在と孤独、それでも前に進もうとする信念を描くなら、今のすみれさんは出ないな」と思っていたが、「振り返る意味での回想だったらあり得る」と思ってたので、ここで出てきて青島が思わず「すみれさん」とつぶやくのは本当にグッときた。いないの寂しいよね、わかる。

 

・こと今回の映画に関しては、すみれさんがいないことに非常にテーマ的に大きな意味がある。FINALでの「やめないでくれ」を経て、室井2部作では警察を退職していることが明らかになっている。いないの寂しいよね、観客も超わかる。いやまあ生きてるのは確定なんだけど。

 

・そこからの雪景色の中の室井さん。青島の「室井さーん」はあらゆるモノマネで擦られまくった超鉄板ネタとしてもはや陳腐化してしまった節すらあるけど、このシーンで遠ざかる室井さんの背中に向けて発される「室井さん!!」の声は素晴らしかった。もうなんか色んな感情が凝縮されてる叫びだった。ボロボロ泣けた。

 

・暗闇が晴れて、後ろから刺される青島。「大人は嫌い、ずるいから」の一言なんだけど、これ、なんとなくドラマ第一話ぐらいの青島に重なるんだよなあと。サラリーマンとして働いて小狡い組織の姿を見てきて、それが嫌になって刑事になった青島が、それからずっと歳をとってそのナイフを受けて抱き止める。

 

・今回の犯人について特殊なのは「加害者」なのだがそれ故に「被害者でもある」という点で。もちろん自分たちに非があるのだけど、その重荷でODを行い、さらに自殺してしまうかもしれないとされていた。青島たちは彼女らが「被害者になる前に」確保しようとするので、これはドラマ版から連綿と受け継がれる「被害者に寄り添う」姿の変奏でもあると思う。

 

・この後、タクシーで帰る青島が出会うのはドラマ第1話の犯人。ここの会話、最高に良い。総じてこの映画、ドラマ版第1話と超大筋では同じことをやっていて「何で俺、しんどいのにこの仕事してるんだろう」の言い換えをやっている。そのしんどさは組織由来のしんどさから「環境の変化、人間関係の変化、世代の変化」といったもっと抽象的で難しい、それこそある種「筋の通らない」不可解さを持ったしんどさになっている。あの時に同じ釜の飯を食った人たち、同じ血を流した人たちは皆、違う場所にいる。亡くなってしまった人もいる。知らないことも増えていく。知らない人もたくさん出てくる。

 

・お互いにそんな世界で「まだ」やってることに、労を労って別れていく。続くLove Somebodyの歌詞のなんと刺さることよ。「あの日見た夢の続きを今もおぼているから、あてもなく過ごす日々をどうにかこうにか切り抜けた 大切な人を忘れないように生きるのも難しいさ 僕らはせめて 同じ時代を生きていることを感じたい」。あれ、完璧では??

 

・和久さんもいない、室井さんもいない、すみれさんもいない、そんな踊るは踊るなのかという当たり前の問いに対して、「じゃあお祭りムービーだから皆戻しましょう」ではなく、「いなくても踊るだ」にするには、青島に最大限ドラマの重心を置くことにしたんだと思う。ものすごく個人的な話にしてきたという印象。

 

・こと青島のドラマとその演出は本当にいいんだけど、踊るブランド由来のある種の賑やかさがそれを大きく包み込んでしまっている。もっとウェットにした方がわかりやすかったかもしれないと思うし、室井二部作を見ても君塚さんのやりたいことってこっちの方になってるんじゃないかとも思うが、うまく商業化するために色々欲張り幕の内弁当にした結果、色々な要素のチグハグ感が目立っているのかもしれない。

 

・でも、私はこの青島周りのドラマについては本当に刺さってしまった。OD2のようなスペクタクルがあるわけでもないし、OD1のような緻密さには及ばない。けど、OD3やFINALなどで描かれた様々な場面があってこそのN.E.Wだと思うし、その間には14年近くの時間経過という反則技がある。観客もこんだけ年数あれば変わるし、その変化は決して楽しいものばかりではなかったはずなのだが、そういった悲哀を受け止めるにたる青島おじさんの渋み。New Evolution Worldとはよくいったもんですわ。次回作がめっちゃ楽しみです。

踊るN.E.Wが楽しみすぎるという雑感

・踊る大捜査線N.E.Wがあまりに楽しみなので、鑑賞前の雑感。

 

・14年ぶりは長い。楽しいなところは大変たくさんある。不安な部分ももちろんあったりする。

 

・舞台が台場を飛び出して東京全域に広がるということで、「都会的・現代的なサスペンス」を踊る風味でやろうとしているのかもしれないが、それ以上に都市そのものとの取っ組み合い、言うなれば本広監督が偏愛する押井守版パトレイバーの強い個性でもあった都市論的な側面が強く前に出るのではないかという期待がある。踊るにおいてはOD2がまさにそうだったが、現代の都市という環境そのものを大仕掛けにするような話運びになるのかもしれない。それだと嬉しい。

 

・同時に、台場というのは踊るにおいて極めて象徴的な空間なので、台場でない話は踊るなのか、という問いは当然出てくるし、というか「お台場」の「所轄」ですらないとなると、文字通り「NEW」がすぎるのでだいぶ冒険するよねと思う。

 

・台場の所轄ではない、本庁と所轄の関係という踊るの重要な縦軸を象徴する室井さんもいない。じゃあそこで何を描くのか。おそらくだが、誰がどう見ても「それやったら踊るじゃなくない?」と言われる設定をあえて前面に出してきているので、何かしら狙いがあるはず。この特殊な前提から始まってどうやって新しい踊るらしさを描きに行くのかが楽しみ。

 

・容疑者室井だと、新宿の実ロケってできずにセット作ってたよね。今回は東京全域でのロケということで、隔世の感がある。本広さんの「青島走らせたい」→「今の東京は絵になる」→「だったら湾岸署飛び出させて」みたいなことをどこかで語っていたのを見た記憶があるんだけど、本広監督は演出の人なのでやりたいこと先行で走った方が自由にのびのびやれて面白くなる気がする。交渉人とか。

 

・湾岸署じゃないんかい、という気持ちと、湾岸署でなくてもいいよという気持ちが同居するのは、そら、90年代から今までずーーっと湾岸署であってもそれは嬉しいけど、それでなくても、時の流れという外部要素があることで「湾岸署でない」ことに一定の説得力が自然と生じている。なのでそこまで嫌じゃないし、むしろワクワクする部分もある。

 

・期待。

 

・一方で不安もたくさんある。

 

・踊るはお仕事コメディでもあると思うのだけど、14年前と比べて随分と世の中の「働く」ことについての価値観や環境が変わっている。働くことに対しての価値観の多様化、その土台にある人と人との関係のあり方も特にコロナ禍を経て大きく様変わりしているし、コンプライアンス意識の変化も大きい。青島は信念の男、足で走り回る男だが、ともすればそのキャラクターが「熱血」を通り越して「熱暴走ジジイ」みたいな見え方にもなり得るはずで、キャラクターを崩さずにどうやって今の世相と接続し、かつ我々に響くメッセージを提示してくれるのか。プロデューサー、ディレクター、脚本の主要3スタッフ陣が帰ってくること自体は嬉しいのだけれど、「現役世代」というより少し上の世代にかかっている方々だと思う。老人ポルノになるか、かつて多くの働く日本国民の胸を打ったようななにわ節を効かせられるのか、どっちに振れるのか。というかこの辺は織田裕二のバランス感覚で持たせる、みたいな形になるのかもしれないけど。

 

・踊るの良さは、「現場の話」だけでも「政治の話」だけでもないし、若手の話でもベテランの話でもなく、そのどれもを広く包み込んで元気づける射程のひろさ、つまり「信念を持って汗をかいている、お仕事頑張ってる人讃歌」であり、その努力によって救われる人があり、活気づけられる世界があるのだということを臆面もなく語ってくれる漢気だと思う。なので、ベテランだけに強く偏った話、にはなってほしくないという個人的な気持ちがあるが、青島が完全にベテラン枠、作り手もちょっと現役より上の枠に差し掛かってる中で、このバランス感覚が崩れないだろうかという不安。

 

・どう考えても登場人物が多くてお祭りムービー感があるのは嬉しいんだけど、捌き切れるのか。旧キャストと同じぐらい新キャストも多いので、そりゃどうしたって「雑に処理される」キャラは出てくると思うしそれは仕方ないと思うのだけど、「この人は雑に処理しないでよ・・・」みたいなことにならないでほしいところ。踊るは3以降で大きくキャラ構成を変えたものの、個性が皆しっかりあって愛着は持てたので、薄いキャラばっかりみたいなことにはならないと思うんだけど。

 

・一番不安なのは予告編の「捜査はAIが判断する」的な部分で、AIみたいにあまりに日進月歩の勢いが凄まじく、リアルタイムでどんどん世の中の捉え方が変わっていくような新進気鋭のテクノロジーをちゃんと扱えるのかというところ。「AIは所詮データだ、足で稼ぐ人間の経験と勘には勝てないのだ、やあやあやあ!」みたいな安直な人間讃歌に落ち着いちゃうんじゃねえかという不安。

 

・書いてて思ったけどこの構造ってOD2の後半のドラマと近いのでマジで有り得る気がする。OD2におけるこれは「政治ではなく現場の力がやあやあやあ」でまだこれは人々が実感を持って共感し得る節だったと思うのだが、同じことをAIでやるのは、もう死ぬほど前からSFとかで擦られてきた主張で手垢がつきすぎている割に観客のAIに関する問題意識は割と卑近な問題にもなってきている筈なので、実際の問題意識に対して上滑りの主張になってしまうんじゃないかと。ただまあ、映画は論文ではないので、正しいかどうかではなく「そうだそうだ!」の合唱をスクリーンに返せるかどうかでもあるし。別にいいっちゃいいんだけど。

 

・AIには信念がないのだとかAIには経験がないのだみたいな話より、そういう便利なものとどう付き合っていくか、みたいな話になる方がまだマシだよね、と思う。

 

・ドラマ版の「さらば愛しき刑事」みたいな鮮やかな落としどころになってるといいな。

 

・すみれさんが出る出ないはあんまり心配していない。まあ出るでしょう。室井さん2部作のラストで青島カムバックした時の盛り上がりは製作陣も記憶に新しいでしょうし、絶対に秘匿キャストが何人かいると思う。

 

・すみれさんが青島と結婚しているかどうか、はそこまで期待をしていなくて、「結婚していない」という線も全然あり得ると思ってる。世帯持ってる青島も想像つくが、くっつかずに「昔の同僚」としてたまに連絡し合う間柄の二人も全然想像できる。

 

・でもFINALみたいに最後にドカンと(物理的に)助っ人でやってくる、みたいなのは嫌だな、、、。

 

・すみれさんよりも、夏美さんはどこへ行った夏美さんは。あの人、踊るの中ではめずらしいワーママなので今の世相との相性がめちゃくちゃいいのでは。というか強行班係で不自然に一人だけ全く何の言及もないので、何かしらあるんじゃないかなと思うが。

 

・登場人物のその後で一番気になってるのは日向杏ちゃんなのだが、室井一家(あえて一家と呼ぶとして)でリクくんとタカくんは登場が確定しているのに、杏ちゃんは全く言及がない。青島の因縁の相手である日向真奈美の娘であり、室井さんとも深い関係があるキャラなので、青島と出会ったらどうなるかが一番気になる。まあ室井ハウスにいるから秋田から出てこれないのかもしれない。

 

・室井ハウスといえば、いろいろ読んでいると「FINALで踊るが終わったけど、室井のその後を描きたい。かっこいいから最後に青島コートも見せたい。でもその時点で踊るの続きを作る気はなかった」みたいな全然意味のわからない制作背景になっているように感じるのだけど、これは「創作者として、室井というキャラクターを意識の端から追いやりたい君塚良一の個人的な除霊の儀式」から始まった極めて個人的な制作意欲を、映画制作という一つの既成事実に昇華することで、踊るブランドの現在の商業的価値を図ることにうまく転用した亀山Pの思惑があったんじゃないかというふうに見えてしまう。じゃないとあの映画、本当に映画という大規模な商業作品にするには極めて個人的な動機から生まれすぎているような気がする。

 

・あのトーンのドラマで2部作は邦画史上でも類を見ない攻めっぷりだと思うのだが、あれで利益が出たのであれば正攻法で作ったらそりゃもっと跳ねる、という見せ方はできるわけだよねきっと。

 

・音楽面が松本さんに戻るのは嬉しい。嬉しい一方で、3とFINALでは菅野祐悟さんはとても良い仕事をしていたと思うし、すでに公開されているサントラの曲目を薄目でチェックした感じでは(ストーリー展開のネタバレになる恐れがあるので)あんまり3とFINALの曲が入っていなかった気がしたので残念ではある。いや普通に名曲なんだけど、踊るにおいては松本楽曲の印象が強すぎて「じゃない方」みたいな扱いになっちゃうのがとてももったいないと思う。

 

・今回、上映時間が長めなのが嬉しい。結構色々言われるけど、踊るは「圧倒的情報量を背景に語られるどーーーーでもいいシーン」も私は好きである。映画として見るとどうなんだって思うけど、映画見に行ってるのと同時に踊るを見に行っているので別にいいと思っている。寅さん見にいくみたいなもので、映画である以前に踊るなので。

 

・そういうしょうもなさは、原典であるドラマ版であれば単純に作品の所要時間が長かったので許容されていたものが映画になるとどうしても中弛み、過剰な抜け感、滑り芸みたいになるところは否めない。でも別にいいです。私はあのオフビート感が好きなので。でも今回、湾岸署じゃないから、あの室内劇的なわちゃわちゃ感はきっとないのよね。

 

・一方で、昔ながらを再復興しつつ新しい景色を見せてくれるのではないかという期待も確かにある。踊るはドラマ〜容疑者室井あたりまでがシーズン1、OD3〜FINALまでがシーズン2、室井2部作以降をシーズン3としたときに、もうドラマが30年近く前なので、今更ドラマと照らしてどうこうという話をするのもなあと思う。実は映画やってた期間のが全然長いシリーズなので。

 

・私は原体験がOD2で遡ってドラマ見てる民だからかもしれないけど、映画の方が基礎水準で、ドラマの方を異常値みたいに見てる節があるんだよな。本来は逆なんだろうけど。

 

・邦画というか映画の水準ってFINALの頃から明らかに高くなってると思ってて、お仕事ものではシン・ゴジラやラストマイルのような傑作があり、純度の高いドラマでは国宝があり、膨大なキャラクター同士の絡み合いという点ではMCUみたいなのがあり、そういうものをこの10年で見てきた観客たちの目は絶対的に肥えていると思うので、平成において明確に一時代を引っ張ってきた踊るの制作陣がこの時代にどんな風を吹かせてくれるのか、というのはすごく期待したいところ。

 

・まあ、もしぜんぜん面白くないやー、という話だったとしてもだね、松本楽曲が映画館の大音量で聴けて、懐かしい面々が返ってくる。それだけで元取れるのよ。やっぱり踊るは特別だわ。

 

 

1994年の心霊写真:高野和明「踏切の幽霊」

「踏切の幽霊」はずっと読みたかった小説なのだけれど、なかなか電子書籍版が出なかったのでいつまでも手が出せずにいた。気がついたらKindle版が出ていたのでようやく購入。そもそも紙で買っていればもっと話は早かったのだけど、いつからか基本的に小説を電子版で買うようになってしまっている。

 舞台は1994年。ある心霊写真の謎を解明するために記者が走り回る。踏切を写した写真に写り込んだ髪の長い女の霊。彼女は誰で、どこからきて、生前、何をしていたのか。

 

 

 言ってみれば「本当にあった呪いのビデオ」の取材パートを超重厚にしたような話。幽霊譚を扱っているが筆致は全編通してリアリズムに徹しているし、まるでドキュメンタリーのような落ち着いた文体は、お化け屋敷的な過度な誇張に流れる事なく進む。オカルト的な物事をきちんと論理の枠組みの中で解釈しようと四苦八苦する様も面白い。純然たるホラー小説かというと少し違う気はするが、ミステリーでありホラーであり、人間ドラマも豊かな社会派小説という趣。複数のジャンルを曲芸的に行き来しつつ、最後まで「面白さ」のギアを落とさず一気に進む。巧みな伏線、力強い盛り上がり、明らかになったかと思えば遠ざかる真実。読後、一抹の寂寥感に託して社会の不可思議さを突きつけるところも見事の一言で、まさに技ありの感じは流石の直木賞候補、社会派エンターテイメントのお手本のような小説だった。「ジェノサイド」もそういえば面白かったけど、あれも10年以上前なのか、と時の流れに驚く。

 1994年という舞台設定が良い。Windows95が出たのが、まあ商品名の通りに95年なので、その1年前ということは、世間がデジタルの波に飲まれる瀬戸際の時代。主人公は元新聞記者、今はフリーランスの雑誌記者なのだが、とにかく一つ一つの事実の裏どりをするのにあの時代は大変だったのだということがよくわかる。当然ネットは普及していなければスマホもないので、泥臭く取材し、泥臭く裏をとる。雑誌社の資料室や、昔の伝手が頼みの綱になる。

 幽霊の正体を明らかにしていくこの物語の本筋は、いわば非現実的存在の輪郭を掴みにいく事なのだけれど、この時代ならではの泥臭くリアルな行動の数々でもって「非現実」に近づこうとする様が面白い。それは結果的に「非現実的な幽霊」を彼岸のものとして扱うのではなく、つまり向こう側のものとして押しやったままにするのではなく、我々の現実に地続きなものとして捉えられるようにする効果もあったと思うし、この幽霊を扱った物語が単なる「怪談」ではなく「身元も素性も社会に知られる事ないまま、この世をさってしまったものの悲哀」という社会派ドラマとして昇華するための必要な足がかりでもあったように感じる。94年を舞台にしてはいても、描かれる悲壮感は今の世相が抱える孤独感と十分通じている。

 ところで今の時代に置き換えて、「心霊写真の謎を明かす」という物語が駆動するかでいうと、なかなか結構な難題な気がするなという感じもして、なぜといえば、心霊写真というものが怪談的恐怖の立役者だった時代から随分離れているからだ。デジタル化が進んだ事によって写真は簡単に編集可能な素材になっているし、もっといえば加工されることを前提にしているような時代になった。アナログだからありえた写真の一回性みたいなものは失われているし、我々は更新・加工・編集・共有可能な現実の中に生きている。紙の手触りでなく電子の利便を求める自分を省みるまでもなく、物質的なところからはどんどん離れていっている。更新も加工も編集もできない物質的なものに囲まれた世界だったから、写真に浮かび上がる異様の姿は際立ったわけで、そうではない世界を前提にした時に、写真に幽霊の姿が映ったとてまず間違いなく疑われるのは「どんな加工を施したか」あるいは「その加工を覆うためのどんなカバーストーリーを作ったか」の方だと思う。

 だから今の時代だと、「写真に写った幽霊の素性を、本気になって泥臭く探しに行く」という段階まで人の興味は駆動せず、踏切の幽霊は誰からも顧みられずに路傍に佇む事になる。寂しい話だ。この小説が幽霊を扱っていながら、全編通して冷ややかなリアリズムの温度の中に哀切な響きをたゆたわせながらも、どこか人間的な温かみを随所に覗かせるのは、やっぱりこれを昔話として置いたことに由来するのじゃないかと思う。心霊写真を本気にできて、その向こうの人間の姿と生き様や温度を、ありありと感じようとあがけば、泥臭く人々の声を拾って辿り着こうとすれば、なんとか辿り着けたかもしれない時代。

 そう考えると、読み終わって別の寂しさが湧いてくる。

 

殻破れて山河あり:CRACK and FLAP

「 夏川椎菜 4th Live Tour 2025-2026 “CRACK and FLAP」に行ったのは1月も後半に差し掛かる頃だったので少し前の話になるが、今になって振り返るに、結構変化球のライブだったのではないかという感じがある。

そもそもライブタイトルであるところの「CRACK and FLAP」がまだこの時点では発売されていない。殻をやぶるという大筋のコンセプトは発表されてはいても、発売自体がされていないので、それがどんな温度で表現されているのか、アルバム全体を通した印象がどんなものなのか、当然発売前なので直接的に触れる機会はない。
アルバム曲がライブ中で披露される事は事前発表されていたけれど、一方でこのライブを構成する主要な曲は前アルバム「ケーブルサラダ」以降に発表された曲たちで、その多くは、(ある意味では明確なコンセプトが無いことがコンセプトになっている)前作「Ep04」からの選曲になっている。つまり新アルバムの名を冠していながら、新アルバムからの楽曲的引用は殆どないという構成になっていた。

 

じゃあライブ「CRACK and FLAP」は、披露できる情報が限られた状態で何をしたかといえば、続くアルバムそのものをアルバムの曲に頼らずに表現するという相当にトリッキーな行為だったと思う。実際のところ、アルバムを聴いた時に感じる印象は確かにあのライブと地続きになっている。

それは3rdアルバム「ケーブルサラダ」のコンセプトをライブ「ケーブルモンスター」が見事に(むしろより迫力を伴った形で)表現したように、4thライブ「CRACK and FLAP」で示された方向性はアルバム「CRACK and FLAP」に綺麗にパッケージされている。前作よりも増したラウドでロックな音楽性、ユーモアと哀愁が混ざり合う歌詞世界、悲観と楽観が絶妙な塩梅で混ざり合う「前向きな諦め」の空気。2ndの頃に手探りながらも示した初期衝動的なバンドサウンドは3rdや数多のライブを経てより一層油が乗った感じになっているし、夏川さん本人の歌い方も史上一番ロックで、とにかく聴いていてずっとテンションが落ちない。

特に好きなのは全編通して殆どずっと「ロック」なのに(ライブ中に衣装替えをせず、歌とMC一本で終わりまで駆け抜ける姿に重なる)、アルバム全体通して確かな陰影があり、曲ごとに紡がれる曲調がバトンを渡すように次の曲の印象へ影響を与えていく点。「メイビーベイビー」や「 later 」、「SCORE CRACKER」なんかは単体で聴いた時とアルバム全体の流れの中で聴いた時で印象が変わると思うのだけど、こういう「構成美」みたいなものは夏川椎菜のアルバムにはずっとあって、これがアルバムを聴く楽しさの一つにもなっている。「ケーブルサラダ」の大団円ほどドラマチックに魅せる事はないけれど、絞った素材の中で確かにコンセプトを語る強かさもあり、今作は「楽しく音楽を聴いているうちに、さらりと、気づかないうちに感情を動かされている」ような鮮やかさがある。ひとえに音楽が強い。音楽の強さでずっと殴ってくる。

 

で、こうしたアルバムの良さが、ライブの時点でちゃんと予告されていたから面白い。ヒヨコ労働組合はもはやバックバンドの域を超えて、完全に夏川椎菜を含む一つのユニットとして素晴らしいロックサウンドを響かせてくれるし、悲観と楽観が入り混じる夏川椎菜の世界観を象徴するような曲を綺麗にピックアップして構成されたセットリストはアルバムのトーンとブレずにリンクしている。舞台上の演出は今回は前作等に比べるとかなり控えめだったが、その分、音楽そのものに意識が集中できるような采配だったと思う。

そして何より、ライブには「このライブの後には、どんなものがくるんだろう」という期待感と、それを醸成するに十分なクオリティがあったのだけど、アルバム側も同じく「このアルバムを経て、どんな展開をしていくんだろう」と期待させるワクワクするような感じがある。
こんな感じに、ライブはアルバムの曲をほとんど使わずして、アルバムの美点を綺麗に象徴してくれていた。ライブ演出的には結構シンプルなライブだったのだけれど、裏を読んでいくとかなりトリッキーというか、めちゃくちゃアルバムを大事にしていた空間だったのではないかと思う。

 

などなど、アルバム発売後のこの期に及んでライブの良さを噛み締めているのだけれど。

少し悔しいのは、このアルバム(あるいはライブ)の良さを捉えるにあたって的確な言葉が足りないと感じることがある。遅ればせながら2ndから追った身からすれば、夏川椎菜の音楽が殻をやぶりに破ってどんどん高いところにいっていて、オルタナロックと呼べばいいのだろうか、この領域で気鋭のアーティストと組みながら独自の色を失わず、どんどん鋭く尖って、面白くなっていっている。実際、どんどん凄いことになっていっている気がするし、その凄さをうまく言い表せられないから、色々な言葉で語られる評価ももっと読みたい。

それでも、凄みはあれど親しみやすさはずっとあり。一貫して「なんか変だよなあ、しんどいよなあ」という視線を自分を含むあらゆるものに向けているスタンスが根本にあって、それはうまく世界や人生や社会や世間に乗り切れない我々にとってみれば一つ「生きる」事において気楽に寄りかかれる依代のような感じがあり、なんというべきか、「作品の中に、聴く人のための座席が用意されている感じ」はずっと変わらない。殻をどんどん破った先に豊かで明るい世界観があるけれど、歌詞の狭間に見えるその地層の奥深くまで潜っていくと「パレイド」や「ファーストプロット」のあの感傷が否定されずに残っている感じがある。遠くにいったけれど別世界ではない。

 

だからこの先を、安心しながら楽しみにしてしまう。もちろんあくまで個人的な感想に過ぎないし、感じ方は人それぞれと思うのだけど、少なとも自分はこのライブ・アルバムを聴いてこれから先が楽しみで仕方なくなった。我ながら、幸福な楽しみ方をさせてもらっていると感じる。それぐらい良かった。

 

実家のような安心感:TrySail 10th Anniversary Tour 2025 “BestSail”

幕張公演と神奈川Day1に行ってきました。そういえば「SuperBloom」に参加した時も同じ組み合わせだった。あれが初めてのライブで、武道館を経て今に至るのが自分のTrySailライブ歴です。

もう終わってから一週間経つのか、と思いつつ、なんかじんわりしみじみと「いいライブだったなあ」という言葉に凝縮される時間でした。

 

幕張公演が3階席だったこともあってか、つまり全体を俯瞰してみれるような位置にいたこともあってか、TrySailのライブにしては少し落ち着いた気持ちでこのライブに臨むことができました。それでも、自他ともに認める「お祭りマッスルユニット」なので大変カロリーはもっていかれるわけですが(翌日にバンテリンのお世話になった)。

とはいえ、ドラマチックな武道館での「出航」を経て、この10年の軌跡を振り返る映像とともに始まるライブは、幕間で3人がユニットそのものの過去と今について語る場面なんかも含めて、楽しくて激しいのだけどどこか内省的な側面もあるというか。

激烈な騒がしさの中でも観客の足を止めさせて、じんわりと「過去と今」に目を向けさせてくれるような穏やかな顔も持っていたライブだったと思います。

 

今回のライブは、BestSailというアルバムがあるにはあるけれども、個人的には「TrySailというユニットとその軌跡を、アルバムという表現で魅せたのがアルバム版BestSail、ライブという表現で魅せたのがライブ版BestSail」という印象を受けました。

アルバムをそのまま舞台上にトレースするのではなく、ライブアーティストとしての側面を取り上げて舞台上で再構成したのが今回のライブ版という印象です。

というか、シングル曲を全て歌い上げる先の武道館ライブが、ある意味では実質的な「ベスト版」のような側面を持っていたライブだったので、同じように「今回もシングル曲全てをやってベスト版とします」という手段は取れない。そうなった時に、「曲の構成は武道館ライブと異なるし、アルバム版BestSailを綺麗になぞるわけでもない、それでも確かにベスト版的な風格があるライブ」になっていたのは流石でした。

アルバムという形式の中にはどうしても盛り込めない、ライブだからこそ表すことのできる表現力や活気、情緒、賑やかさが綺麗に散りばめられていました。

 

楽しくて明るい、実に「TrySailのライブ」という感じ。

おそらくは昔からの人には懐かしく、新しく知る人には入り口として入りやすい、そういうとても間口の広いライブだったように感じました。言い方が変ですが、とても居心地が良かったです。

自分は古くから知っている人ではないのですが、懐古的すぎるわけでも、新しさに走りすぎるわけでもない、本当にちょうどよく、どの層の人にも届く感じ。でも、昔を懐かしむ時間も、これからに期待させる時間もない訳ではない。本当にちょうど良い塩梅。このバランス感覚がすごく心地よかったです。

 

おそらくはTrySailの3人も、このライブを作り上げたスタッフの方々も、どんなファンがいてどんなことを求められているかを凄くよくわかっていて、またファンの側もどんな事を求めたいかがはっきりしていて、両者がピタッと重なった地点で作り上げられたような時間だったように思います。

なんというか、ライブ中の一体感が凄かったのですが、演者も客席も皆おなじ方向を向いている感じがする、阿吽の呼吸みたいなものを舞台上と客席から感じられるライブでした。

皆で作ってきた感があるのですよね。

 

今回のライブ中、3人を8割の意識、残り2割の意識を観客に向けていることが多かったのですが、それはどちらも「肩の力を抜いて楽しんでいる」ように見えたからでした。

3人がこの瞬間を楽しんでいる、その事が観客にとって最大の楽しみになっていて、これがまたパフォーマンスに力を与えていく。そういう素敵な好循環が、目の前で繰り広げられているように見えたからです。

この好循環、裏を返せばここに至るまでの過去、ずっと昔には「楽しませなきゃ」「楽しまなきゃ」という力み方の上で一つのライブを作り上げていた時期もおそらくはあって、そうした共闘のような時代を経て段々と今の、お互いに信頼を預けるような一体感に繋がっているのかな、とも思いました。その姿はまさに10年の軌跡の為せるもので、この関係性は確かに物理的なアルバムでは表現ができない、舞台という空間と、何より観客の存在があって初めて見せることのできるTrySailの一側面です。

大変なこともあったよねという話を神奈川Day1で開けっぴろげに話す3人でしたが、10年の軌跡の中ではやっぱりそういう時間もあったことと思いますし、そういう事をあの場で言ってくれるという事が一つの距離感の現れでもあるように思います。

 

自分はこういうユニットの現場をたくさん見ている訳では全然ないので正直あまり比較ができないのですが、少なくとも自分がこれまで見てきたライブアーティストの空間とは少し毛色が違うなと感じました。

独特の多幸感がある現場だと思います。

3人のあの独特の空気感(歌が始まるとスッとその世界観の人になるのに、歌が終わってMCになるとものすごく身近な存在に感じられるあの振れ幅)だけでなく、やっぱりそこには集っているファンの空気もあるように思うのです。

「TrySailがなんかやると言うので、いつもの皆で集まりました」とでも言うような、なんか同窓会みたいな空気を感じました。往々にしてそういう場は昔馴染みの人だけが盛り上がって新参は蚊帳の外ですが、ことTrySailについては新しく入った人にちゃんと席が用意されて、盛り上がれる。開かれていて明るい感じ。

 

帰り道に、ファン同士が感想を語り合っているのが耳に入ってくる時間が好きで、わかるわかると心で頷きながら帰りました。

わかる、皆でバンザイするのって、実際にあの空間でやるとわかるけど、めっちゃ楽しいよね。

 

飴と爆弾:劇場版チェンソーマン レゼ篇

すごいものを観た、と思いながら劇場を出る足がふらついた。

そして街を放心状態でぶらぶら歩いて、また再び劇場へ戻って、次の回のチケットを買った。

チェンソーマンの、別に大ファンではない。一応、原作の第一部はなんとなくで読んでいたが、アニメは1、2話ぐらいで止めてしまった。レゼ篇も読んだはずなのに、内容は殆ど覚えていなかった。アニメ総集編の評判が良くて、これもなんとなく観たら面白かったのと、米津玄師と宇多田ヒカルと上田麗奈の名前に釣られて、なんとなくで足を運んだわけだ。

逆に言えば「チェンソーマン」がどんな雰囲気なのかも、そのアニメ版がどういう感じなのかも、ある程度予見できている状態で、その上で軽い気持ちで観に行った。

そしたら、なんかもう、別格の体験だった。

7月に鬼滅の刃の無限城篇が出たばかりなのに。日本のアニメ業界はトップ層で殴り合いでもしているのか? 

 

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控えめな言葉を捨てるなら、この映画、奇跡みたいな映画だと思う。

レゼ篇はボーイミーツガールの物語で、抒情的で甘酸っぱく、しかしチェンソーマンらしく残酷で大胆で暴力的でぶっ飛んでいる。つまり静かで穏やかなドラマと、激しく騒々しいアクションが共存している。そういう映画は往々にしてある。でも、そういう映画の殆どが、ドラマとアクション、静と動を行ったり来たりする。映画の不文律的に、長い時間の中に動きのある「見せ場」を定期的に差し挟む事で、まるで吸って吐く呼吸のように、リズムとテンションを維持する。戦闘シーンの合間に場面が変わったり、回想が入ったり。それは映画のテンションを保つ上でも、観客の集中を保つ意味でも必要なことだったのだろう。

ところがこの映画に限ってはそういう作り方をしない。

本当に信じられないことに、中盤以降、ずーっとギアがフルに入りっぱなしで「ついてこられるやつだけついて来い」と言わんばかりの大立ち回りの連続、息継ぎの間をまるで与えないで最後まで全速力で突っ走る。レゼとデンジの淡い日常の時間と、頭のネジが吹っ飛んだような大活劇が良い意味でお互いを完全に無視するような存在感で並び立っている。

モノローグ?知るかそんなもん、とでも言わんばかりに。

アニメーターの手の動き、滴るインクの一滴さえも余すことなく画面に写し取ろうとするような、貪欲で暴力的な作画。まあ、もう魅せる魅せる。一瞬たりとも幕間を挟まず、絵と音の力で殴り続けてくる。

大活劇は青春の瞬間を再び手に取って参照するようなことをしない。「あの時」を思い返すような回想も一切入らない。全くギアを緩めることがない。鬼滅の刃とは真逆の作りで(当然、どちらが良いという話ではない)、そろそろここで一呼吸置くかなと思ったら全くそんなことをしない。ビームではないが、「最高最高最高」を畳み掛けるテンションでずっと疾走する。文字通り疾走する。

それなのに、数多の爆発が街を破壊しながら夜空に焼き付ける色彩、拳と拳の激闘が切なく見える時がある。音楽も映像も真正面から「アクション」を描いているのに、血湧き肉躍る大爆発の向こうに前半の穏やかな時間がチラついてくる。目に入る映画とは別に、頭の中に違う映画が描かれるみたいに。

いやほんと、なんでこのバランス感で成立してるんだ?と冷静になると怖くなってくる。全く異なる種類の2つの映画が共存している。

ところで、「異なるもの同士」という要素それ自体が、この映画においてとても大事だったりする。人間と悪魔、都会のネズミと田舎のネズミ、デンジとレゼ。

 

異なるもの同士といえば、この映画はずっと、描かれるものとは違う位相を裏側に控えさせている感じがする。アクションの裏側に、爆発の粉塵に隠れたドラマがある。レゼが見せる笑顔の裏側には語られない時間と言葉がある。マキマの言動には未だ描かれない思惑がある。そういう二面性的な構造がチラチラと目に映る中にあって、時折、画面を過ぎる「素直な、嘘のない優しさ」がすごく大事にされている。

デンジとレゼの2人の物語には存在感を譲るものの、アキと天使の悪魔のパートナーシップも印象的に、まるで映画のテーマの補助線のように描かれている。お互いに理解し合うことなく、牽制し合う2人が、ある瞬間に本音をむき出しにする。そこで描かれるのは、この映画が表面的に描き続ける「残酷さ」とは全く逆の感情だ。

この映画は表立ってはグロテスクで非情、言い換えれば激しく暴力的だが、その裏側にある静かで優しい感情こそが本体だと思う。

殆ど直接的に描かれない「優しさ」が胸にくる。そしてそれは場面での演出以上に、声優陣の演技でもって描かれる部分もとても大きい。1人のこらず全員良かったのだけど、特にレゼ役の上田麗奈は幾つもの顔を持つキャラクターを見事に一つの人格に束ねて見せた上、その演技で最大限の助走をつけてEDの宇多田ヒカルと米津玄師のデュエットへ感傷のバトンを繋いだと言っても過言じゃないはず。大拍手。

 

ここまで核心的なネタバレを避けて書いてきているつもりだけど、本当に良い場面、演出、動き、感情ばかりに満ちた映画で、爽快感と喪失感、開放感と虚無感、疾走感と閉塞感といった相反する感情が絡みながら波状攻撃をかけてくる映画をなかなかここ最近観ていなかった。

一個だけ直接的に映画の場面に触れるなら、祭りの夜の飴と花火の場面が好きだ。あの瞬間を中心に映画が折りたたまれて、美しい甘い色合いの飴と鮮やかな花火が、別の意味合いに転換して、異なる位相に落下していくような感じがする。

映画のギアが変わる瞬間。2回みてもあの流れはゾワっとする。

同時に、そこには映画を見ることの根源的な喜びのようなものが確かにあった。知らないところへ、どこかへ持って行かれる。有無を言わさない勢いがある。圧倒的で、楽しい。

家系ラーメンに負ける

キムタクが「なんだこれ、うめー!」みたいな事を言いながら家系ラーメンを食べる動画に触発されて、近所の家系に行くことにした。行った事がなかったが、評判のいい店らしい。

動画ではライスも一緒に食べていた。色々とトッピングをアレンジしていて、これがまたうまそうだった。

家系ラーメンを食べる時、ライスを合わせたことがなかった。これは醍醐味を損なった状態だったのかもしれない。ネットで「家系ラーメンの食べ方」を調べると、色々と指南が上がってくる。簡単に読んでから店舗に向かった。

初めて入る店だったが、ご丁寧に「家系にはライスがあいます」と各所に掲示されていて、オススメの食べ方や調味料の使い方まで貼ってあった。情報量が多い。読みながら待つ。

 

そうしてやってきた麺とライスを相手取ったわけだが、「やっぱりライスが合いますね」なんていう生易しい話に収まらなかった。

最初は普通に麺を啜っていて、これ自体でガツンと脳天にくるような味の濃さとキレがある。

食べ進めていくうちに、だんだん悩んでくる。まず、海苔をどう使うか。にんにくをどこに置くか。豆板醤は今入れるか、まだ抑えるか。

ただ、この辺りはまだ普通のラーメンを食べている時の悩み方の範疇で、自然と自分の中で解が出てくる。この解はこれまでのラーメン遍歴を踏まえたものが殆ど半自動的に出力されるので、大体自分の好みの範囲に収まってくる選択肢だった。

問題はライスだ。ライスが問題だ。ライスがあるだけでこんなに悩むと思わなかった。

ラーメンを食べ進めた後、ライスの存在感が増してくる。こいつをどこでどう使う? 

 

卓に並んだ調味料の脇に店のオススメの食べ方がご丁寧に添えてあるのでまずはその通りにやってみる。うまい。当然にうまい。

それで次はどうする? 海苔とネギとチャーシューと煮卵とニンニクと豆板醤とお酢と胡椒とたくさんの調味料に彩られたデッキが目の前にある。どう組み合わせるか。悩みながら合わせてみる。うまい。このうまさは脳天にくる。だから思考が飛ぶ。それまでゴチャゴチャと悩んでいた。それが一瞬で塩分の波に洗われて消えてしまう。

悩んだ結果、悩みとは縁遠い解放感に殴られ、そしてまた悩む。そしてまた殴られる。悩む。圧迫と解放。この繰り返しはサウナみたいだ。

だんだん、訳がわからなくなってきた。脳が味覚のシャワーの中で、音を立てて開いていく感じがする。

問題はライスだ。ライスがある事で選択の幅がものすごく広がるのが家系の妙なのだ、とこの時にようやく理解した。

そして、徐々に自分の中のラーメン遍歴に裏打ちされた「オススメ解」が無くなっていくのが分かった。単純に、経験がない。ライスと、家系ならではの沢山の具材と、沢山の調味料とで編まれる食べ方の選択肢の幅広さに対して、自分の中で道が作れない。手探りで悩みながら、選択肢を作ってみる。

うまいんだこれが。ハズレがない。懐が広い。どんな選択も正解にしてしまう。家系ラーメンは優しい食べ物なのかもしれない。

優しさの傍で塩分に殴られる。悩んで、うまくて、殴られる。優しい。そして混沌としてくる。この混沌はギラついている。濃くてキレがある。ニンニクの香りがする。

自前のパーツでミニ四駆がコースを爆走するのをみるのと同じような快感がある。悩んで選んで味わうと飛ぶ。

 

結局、食べながらずっと悩んでいた。

悩みながら食べるので脳が疲れてきて、その分、一口の快感の爆発力がさらに高まった。目がまわるような忙しさだったのは、終始うまいうまいと手を動かし続けたからだ。

うまかった。でもなぜか精神的には敗北感のようなものが湧き上がってきた。自分がこれまで食べてきたラーメンの食べ方の道の狭さを知った。家系の選択肢の幅の広さに見事に組み伏せられた。家系ってすごい。追いつけなかった。置いていかれた。なすすべがなかった。

 

うまくて、疲れて、圧倒されてぼうっとしながら帰った。異常に暑い夏が続く。