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シン・学校の怪談か?:GHOSTBOOK おばけずかん

山崎貴監督といえば、ALWAYSや永遠の0の大ヒットメーカー、あるいはドラ泣きだとかドラクエだとかお涙頂戴だとかの言葉で色々な毀誉褒貶の評で語られがちな監督ではあるものの、個人的にはずっと足を向けて寝られない人であり続けており、それはひとえに「ジュブナイル」という映画を世にもたらしたことが大きい。90年代後半から00年頃にかけて、ファンタジーとロマンに溢れた子供向け映画の数々が映画館を賑わしていたが、SFファンタジーアドベンチャーであり子供向けの青春映画であり、CGをふんだんに使った技巧的な映画でもあるジュブナイルは、子供だった自分にとってロマンとは何かを銀幕で示して見せた映画の一つだった。当時でいえば、そうした魅力的な映画群の筆頭でもあった「学校の怪談」と並んで、子供時代の映画体験の一幕を華々しく飾っていたわけだ。

 

 

「GHOSTBOOK おばけずかん」はその山崎監督発の、久々のジュブナイルアドベンチャーだった。ほんとーーーに久々だと思うが、これは山崎監督が久々というより、邦画においてこのジャンルが結構長いこと空席だった印象も関係していると思う。妖怪ウォッチとか妖怪レストランとか妖怪大戦争とかは要所要所にあったけれど、GHOSTBOOKはちょっとだけ毛色が違うような感じがして、どちらかというと青春がメインディッシュでホラーやファンタジーをそこに振りかけている映画という意味では、海外のIT(の第一部)の大ヒットなんかが企画の後押しになったのかもしれない。とにもかくにも、こういう映画が大々的に、しかも夏休みに公開されるという事は、久しくなかったように思った。

 

 

 

先生と子供たちが、とある理由で異世界に迷い込む。様々な冒険を経て、お互いの感情に少しずつ踏み込んでいく。ユニークなおばけ達との戦いが画面を賑わせるし、課題を着実にクリアしていく感じはまさに冒険活劇といった趣だが、中心にあるのはあくまで子供と大人それぞれのドラマだ。映画的な謎や捻りを所々で小出しにしながら、物語は少年少女の感情の機微を丁寧にすくい取っていく。

機微を描くとはいえ、鬱々とはしない。真逆で、明るく素直な映画だった。先生と生徒との掛け合いも楽しいし、おばけとの戦いはワクワクする。笑いあり涙あり。実に夏休み映画らしい。

 

おばけが題材とはいえ決して怖くなりすぎることはないものの、日常と少し異なる位相にある街の様子、夜の街を闊歩する異形の行列、空間が狂ってしまう建物など、不思議な場面には事欠かない。怖くはないが、不思議で楽しい。そういう場面がずっと続く。子供にとってはきっと楽しい映画体験だ。

 

ところで大人から見ると、この不思議さは、それ自体が子供時代のメタファーのようでさえある。幻想的で、しかし通り過ぎていってしまう光景。

GHOSTBOOKが面白いのは、この異世界での体験が一夜の出来事ではないこと。三日間の出来事で、先生の家で寝食を共にしながら、さながらキャンプのように異世界で過ごす様子が描かれるわけだけれど、これが却って不思議な時間と日常との境目を曖昧にする感じがする。皆でカレーを食べたり、布団を並べたりする。おばけとの戦いで作戦を練って、色んな野外に出かけていく。その姿には、それが楽しげであればあるほど、勝手に、どこか切ない感じも受ける。こういう時は確かにあったなあ、と。もはや随分昔のことではあるけれど。

 

子供から大人へ至る時間の流れの中では、子供時代というのはほんの一瞬でしかない。子供の世界は、たくさんの別れや、忘れる、といった言葉を栞にしていつかは閉じられてしまうのだけれど、GHOSTBOOKはいろんな仕掛けでもってその事にすごく自覚的な作品になっている。そのことが、ちょっと意外だった。だからただ楽しい、賑やか、みたいな言葉だけで終わるファンタジーアドベンチャー映画に止まることをせず、子供につられて劇場にやってきた大人にしてみても、何か感じ入るところがある映画になっているんだと思う。

 

そういう、いくらかトリッキーなことを試みていて、概ねそれは成功している感じを受けた。難しすぎず、適度なミスリードとどんでん返しがあり、決して嫌味な感じがしない。ひねったり、意地悪になろうと思えばいくらでもなれる機会がある話運びだったし、観客の予想を大胆に裏切るようなことも、現実世界にファンタジーを入れ込む作風だからできたはずだと思うが、それでもそれをしない真っ直ぐさがとても好印象だった。子供が見にきているという意識というか、矜持のようなものを節々に感じることがあって、難しくしすぎたり、こけおどしに走ったり、そういうことをしない、いい意味で実直な映画だったから、見終わった後の爽快感は大変なものがあった。星野源の曲も良かったし。それでも、大人にしか見えないところでこっそり残り香のように切ない感じを残していく。このバランスがとてもうまくて、良い映画だったという感想に尽きる。

 

 

ところで、これはある種の確信をもって言えるけれど、東宝の中でも学校の怪談で育った方はいるだろうし、同じような趣旨の企画が過去に全く出てこなかったことはないんじゃないかと思う。子供向けファンタジー映画の金字塔でもあるから、今回、GHOSTBOOKが企画された際に学校の怪談を全く参照しなかったという事はないはずだ。直接的な目配せや言及はなかったけど、なんとなく底を流れている空気や、目指そうとしている方向性に共通するものはあった。プロモーションなんかをみて、GHOSTBOOKに学校の怪談シリーズの残響を聞きに行こうとする人はいると思う。シン・学校の怪談、という表現はやや大げさかもしれないし、構造的には結構違うことをやっているように見えるが、要素要素で相似形になってるところはある。

 

例えば、先に挙げた先生と生徒の関係。子役はエネルギッシュで、いい意味で生意気そう。先生役の新垣結衣はコメディをやらせると本当に光る役者で、画面のテンポ感をずっと引っ張っていく。GHOSTBOOKの子供たちとガッキーとの組み合わせは、先生と生徒の関係が強力な魅力の一つになっていた「学校の怪談」シリーズにそのまま引っ張っていっても全く遜色がない。この掛け合いのリズムや、凸凹感を見ているだけでも、正直いって往年のシリーズが復活したような気持ちがして、誇張なく言って泣きそうになった場面が何度かある。

 

学校の怪談とGHOSTBOOKの明確な違いを挙げるとしたら、「別れ」についての扱いかもしれない。学校の怪談は極めて重要な形で「別れ」が取り上げられるけれど、GHOSTBOOKは学校の怪談シリーズよりも少し違った形で「別れ、あるいは関係の終わりのその先」を描いている。後から思い返せば夢のようだった体験のその先、人間同士がふれあい、そして関係が変わった後のその先。

 

もちろんGHOSTBOOKは学校の怪談の続編ではないけれど、受け手としては勝手に1〜4から続く精神的なバトンを20年の時を経て再び提示されたような気がした。別に20年かけて考えた特別難解な解というわけではないが、GHOSTBOOKの終わり方、そこで語られていく言葉や、ラスト間際のガッキーの表情なんかを見ると、それらが束になって描かれるメッセージが、学校の怪談1〜4のラストと響き合ってくる感じがした。

 

 

まっすぐ正面からファンタジー冒険活劇をやりきった作品だった。そこに平成の名作の復刻版としての影や、変奏としての姿を見出すことも容易かもしれないけど、決して懐古主義に流れることはなく、ちゃんと今の子供たちに向けてオリジナルなものを作っている。それが見ていて嬉しかった。GHOSTBOOKは確かに学校の怪談的な要素はあれども、決して学校の怪談になろうとはしていない。あるいはジュブナイル的要素はあっても、ジュブナイルの焼き直しでもない。

 

劇中で、「先生、もう令話ですから」みたいな台詞があった。きっとこの映画を楽しく見た令和の子供たちが沢山出てくるだろうと思う。銀幕にロマンを見て、それがさらにずっと先の未来に何らかの形でバトンを繋いでいくんだと思う。GHOSTBOOKは多分そういう映画としての力があると思うし、数多の子供向け映画から継承したものという意味で言えば、その役割こそが一番大きかったのではないか。令和にいい映画が生まれてよかった。