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歯を食いしばって犬を打つ:The Last of Us Part II

(ネタバレなし)

 

幸いにして人を殺すことなくここまで生きてきたがそれは現実世界の話であって、ゲームの世界では随分と沢山の殺しをやってきたことに気が付いた。世界で最も評価されたゲームの一つと言っても過言ではない「The Last of Us」の続編をプレイし終えて、そんなことを思った。自分は人を殺したことがないが、もし誰かを殺したいぐらい憎んだり、あまつさえ刃を突き付けたり銃口を向けたりすることがあったのならば、どんな風に感じるんだろう。

 

 

 

PlayStation4のキャッチコピーに「できないことができるって、最高だ」というものがあり、観た当初はピンとこなかったが、いろんなソフトをプレイしていくとこのコピーの意味がわかってきた。スパイダーマンになって摩天楼を飛び回ったり、とんでもなく大きな巨人に身一つで立ち向かったり、時間を戻したり、そういう数多のファンタジーを楽しませてくれるのがゲームソフトだった。皮肉にも、PS4で最も期待されたソフトの一つであるラスアスの続編は、このコピーをとんでもないブラックジョークに変えてしまう。ラスアス2において果たされる「できないこと」というのは、大事な人を奪った相手への壮絶な復讐劇と、その道中にある無意味な殺人と、延々と繰り返される暴力の当事者になることだった。どっちかというと最高というよりは最悪の類だ。でも確かに、現実では体験ができない。

 

 

 

 

ラスアス2の粗筋を簡単に述べるなら、「大事な人を奪われたので、腹が立ったからぶっ殺しにいく」。筋だけなぞれば任侠映画のような内容だ。あるいはチャゲアスのYAH YAH YAH。しかしラスアス2がYAH YAH YAH、あるいは多くのゲームと異なるのは、ぶっ殺される側にも相応の事情と、人生と、感情があるということを、これでもかこれでもかと描いていくことだ。むしろ、最初は憎たらしくてしょうがなかったらぶっ殺される側に、プレイしていくうちに徐々に感情移入していく自分がいる。これは相当に不思議な体験で、全く感情の整理が追いつかない。ゲームならではの圧倒的な没入感を通じて、加害者が立体的な人間像として描き出されると、今度は「新たな加害者になろうとする大元の被害者」の立場が揺らいで見えてくる。正しさや大義名分が足下から崩壊していく。しかしそれでも人生、もとい復讐劇は続き、一度始まった暴力の連鎖は止まらない。

 

結果として何が起こるか。ゲームとしてのカタルシスみたいなものを一旦脇において、争いの無情さ、暴力の虚しさ、血で血を洗う憎悪の地獄絵図の悲しさを、プレイヤーは呆然と見つめることになる。

 

 

 

 

 

ここで全然違う話をすると、実はこの「相手側にも相応の言い分がある」というのは決して新しい語り口ではない。個人的に大好きな映画に「キャプテン・フィリップス」という作品があり、ラスアス2をプレイした後にこれを思い出した。ソマリア沖で海賊に襲われるトム・ハンクスの映画なのだが、白眉なのはこの海賊たちが段々と「被害者」に見えてくるという点だ。出来事の上では明らかに加害者なのだが、見ているうちに「そもそもこの子達は国家間の海洋派閥を巡る争いに巻き込まれて海賊に身をやつしただけで、悪人に生まれついたわけではないんでは」と思えてくる。元の映画が史実なのでラストまで駆け抜けてしまうと、最終的にはトム・ハンクス一人を救うためにアメリカ海軍が全力をあげて助けに来るのだが、ほっそい体に小さな銃を持った海賊一人に、いくら自国民が人質に取られているとはいえ、米海軍は空母やら特殊部隊やらをドカドカ投入してくる。いやもう幾ら何でもオーバーキルじゃないかと思うんだが、ここで米軍が戦っているのは本当はあの海賊ではなくてもっと巨大な大義や尊厳みたいなものなのだ、だから巨大だし全力だ。最終的にフィリップス船長ことトム・ハンクスは救われるのだが、どちらかというと見終わって目に焼きつくのはあの海賊の少年の姿だった。ボロボロになって救出される船長と海賊のことを思うと、人間個人一人をあげてどっちが悪いどっちが正しいという話をする以前の、何かもっと巨大な渦の中で揉みくちゃにされているうちにお互いを殴り合ってしまった者たちの切なさみたいなものを感じる。

 

 

 

ラスアスの話に戻る。前提として、ラスアス2の世界では、新種の病原菌によるパンデミックが起こり、簡単にいえばゾンビ・アポカリプスのような状態になっている。人々は荒廃した世界で生き抜くために、特定のコミュニティに所属し、少ない資源を奪い合うために抗争を繰り返す。前作のラストオブアスでは、そんな絶望的な世界の中で、何もかもを失った中年男が、一人の少女と出会い、地獄のような世界に一片の希望を見出していく。前作は凄惨な暴力描写に満ちた作品だったが、十二分に人の胸を打つ美しい物語が紡がれた。希望と愛を取り戻していく話だったからだ。特にそのストーリーテリングの妙をもって商業的にはもちろん、批評的にも激賞されたラストオブアスは、その続編で前作に続く、厳しさの中にも優しさのある世界を描くかと思われたが、そうはしなかった。2はある意味、前作の物語の美しさに隠れた「裏側」を映し出していく。取り戻した希望と愛の裏側に生み出された大量の絶望と憎悪を、真正面から描き出す。人間と人間がぶつかり合う地点で、お互いに醜く顔面を引っかき合う様を見せつけてくる。

 

 

まあ辛い。ほんとに辛い。ラスアス2はゲームである。敵がいて、目的地があり、プレイヤーは自分の意思でそこへ向かう。目的の到達は達成感へつながるはずで、ゲームはそこで生じる「快感」を駆動輪にして物語を進めていくメディアだが、ラスアス2は真逆のアプローチをとる。コントローラーを握る相手におびただしい不快感を浴びせてくる。敵を倒すのが辛い、ボタンを押して相手を殺めるのが辛い。雨ばっかり降ってる暗く陰鬱な街を歩くのが辛い。とにかく辛い。敵が連れている犬を殺さなければならない時はどうしようかと思ったが、その犬が敵一味にちゃんと可愛がられている過去を見せつけられた時には、本当に、マジで、もうどうしようかと思った。こういうことばっかり起こるのだ。コントローラーを置きたくもなる。ゲームでこんなにしんどい思いをするのは何事かと。ところが、コントローラーを全然置けなかった。嫌で嫌で仕方がないが、それでも前に進みたくなる。これは完全に矛盾している。矛盾しているから葛藤が生まれるし、その葛藤は物語への「倫理的に正しいんかこれは」という問いへとシンクロしていく。プレイしたくないと思わせるゲームを、最後までプレイさせるのは相当な技量と演出力がいるはずだが、めちゃくちゃ迷いながらも歩を前に進めてしまう体験は、言ってみればお化け屋敷のそれである。「ゲーム」とはなんなのかという思いにすらさせられる壮絶な感情体験だった。

 

 

そういうわけで、生きて前へ進むために歯を食いしばって犬を打ち、人を殴り、矢を放ち罠を仕掛け銃を撃った。

ロシア文学のことを思い出した。そんなにたくさん読んでいるわけじゃないんだけれど、このゲームをやっていると、ドストエフスキーを昔読んだ時のような感情が湧いてきた。暗くてジメジメしていて、肌寒くて、廊下を歩くと床がはっきり軋んで、明かりが乏しくて虫の音が夜に響いていて、出口が全然見えない長い物語で、登場人物がたくさん出てきて、それぞれに事情があって、ラスコーリニコフには罪があって罰がある。ラストオブアス2の世界では、森の中で首吊り死体が揺れていて、薪が燃えていて、雨がずっと降っていて、明るくて楽しい思い出が秒速で後ろに流れていって、真っ赤なサイレンの光が壁一面を染めていて、村が燃えていて、島が燃えていて、灰色の海がずっと遠くまで続いている。

 

プレイし終えると、まるで暗い映画を見た時のような、あるいは長い小説を読んだ時のような疲労感と虚無感があった。何より自分がそこにいたという感覚は特別だった。今になって思うのは、作り手は物語を語る上での「ゲーム」というメディアの限界に挑戦したかったのではないかと思う。確かに美しい物語ではないかもしれないが、ゲームの「物語を語る機能」にしっかりと光を当てようとしているし、この感情体験は他では味わえない。二度と遊びたくないと遠ざけたくなるゲームになるとはプレイ前には思いもしなかったが、それは決して否定的な意味ではなく、心が作品に押しつぶされそうになったからだ。

 

 

ところで、じゃあこれがあの大傑作、ラストオブアスの続編として正解だったのかという話。

個人的には、ラストオブアスでなくても描けたと思うが、ラストオブアスで描くからこそ、ものすごく効果的になったんだと思う。そういう意味では最強の同人的な作品でもある。そして、アプローチは違えど、確かに前作、ラストオブアスの続きであると感じられるところは根っこにあり、それは前作の主人公、エリーとジョエルにとっての本当の意味での「ラスト」、精神的な決別が描かれるからでもある。壮絶な復讐劇を描きつつ、ちゃんとここを掬い取ってきたのは、前作への忠義なのかはたまたある種のファンサービスなのか、人によって意見は分かれるところだとは思うが個人的には、1よりも2のラストに救われた。ネタバレはしないが、なんて良い「守り」だろうと思う。

 

 

人は誰かを徹底的に憎むことができるし、それを弾みにして人を殺すこともあるし、しかし憎まれて殺された側にも人生があり生活があり友人や家族があり、感情があり思惑があり背景があり、つまりは人生があると気づけば、そこへ眼差しを向けることができる。「正義の反対はもう一つの正義なんだ」とはかの野原ひろしが言った言葉とされるが本当のところの根拠は定かでなく、出典のないネットミームとして言葉の強さだけが漂っている。でも、出典や真意がどうであれ、そういうことなんだろう。正義や大義とは相対的なもので、争いとはナイフを振りかざしてポジショントークをしているに過ぎない。だから、めちゃくちゃ嫌いだと思う相手にさえ、どこかで感情移入ができたり、一抹の理解ができたりする。

 

 

はずだ。はずだ、という、微妙に確信には至らないが信仰のようなものを、プレイヤーは激動の物語の中でなんとなく感じ取る。言葉では表現されないけど、ただやっぱり、どこかに暴力にブレーキをかけるレバーがある。歯を食いしばって暴力を振るう時の、奥歯と奥歯の間ぐらいのわずかな隙間くらいのところに。犬にナイフを指す時の「辛い」という感情に、相手を殴ろうとするエリーのしかめた眉根に、遠くで敵同士が打ち合いをしている光景に。極めて残酷だけども、それを見て心が軋む時に、その心の動きにこそ本当にわずかでも救いがある。今作で描きたかったのは、与えたかったのはこの感情ではなかろうかと思った。それは前作で長い時間をかけて描いたものだったが、本作は本当に僅かな描写で仄めかすに留めている。その描き方が良かったか悪かったかはわからないけれど、少なくとも、地獄の中にあって、辛さは若干和らいだ。