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夏川椎菜3rd Live Tour「ケーブルモンスター」の感想

 

ケーブルモンスターの立川day1と神戸day1にそれぞれ参加してきました。自分の中でのツアーはこれにて終了。感想をまとめておこうと思います。

ネタバレありなのでご注意ください。

自分はデータ収集型の人ではないので記憶違いたくさんあると思うけどそこは生暖かい目で見てください。

 

 

大体がライブ終わりは「よかった、、よかった、、」と辞世の句みたいに呟くしか出来なくて、それは初めて参加したMAKEOVER以来変わらないのだけども、後から冷静になって、じゃあ一番何が良かったの?と問われると、はて?となる。

夏川椎菜のライブって基本総力戦だと思っています。音、衣装、演出、MC、セトリ、観客、夏川さん個人のドラマ。個別の要素のどれか一つ選んで「だから良かった」ではなく、全部が相互に補完しあって、合体したモンスターみたいになって襲いかかってくる。

そりゃあ「何が」とは言えんて。

 

 

そういう中でのケーブルモンスターの印象は、MAKEOVERを受け止めながら違うことをしようとしているのかな、というものでした。

MAKEOVERPre2ndも)は「バンドサウンドめっちゃいいと思うんだけど、どうでしょ?」というライブで、そりゃもう「ええ、ええ、そりゃもう」という感じだったんですが、ケーブルモンスターはその時に出来なかったことをやろうとしていると。つまりは声出し、レスポンス、観客との一体感。MAKEOVERを「観客がバンドに走ってついていくライブ」とするなら、ケーブルモンスターは一緒に歌って踊ってハイタッチするようなライブ。二つのライブともにドラマチックだったけど、観客と舞台が地続きになって手を叩いている感じのするケーブルモンスターは、どこかあったかい感じがする。

 

もちろん時制もあります。声が飛び交うライブは、まだコロナの影響が強かった時分に比べれば当然、異なる温度がある。一方、「ケーブルサラダ」を中心にしたライブでこのあったかさはすごく大事で、アルバム自体がある意味「負けたり傷付いたり諦めたり嘆いたり」した過去を温かく笑うような空気がある。歌に乗せて多くの人の声が乗ることで、その温かさはもっとリアルなものになると思います。だから、元々ライブをやりたい、という思いから始まった3rdライブという空間で、「ケーブルサラダ」が目指す世界観の完成系に触れたような気がしました。

色々大変なことを各自背負ってるけど、それはそういうもんだからと包んで、手叩いて声出して、最終的には笑えるまでは生きよう、と前を向くようなアルバム、で、ライブ。

 

そういう前向きな空気を一番強く感じたのは、コーリング・ロンリーの扱いです。あ、この曲こう来るんだ!と思った。「ケーブルサラダ」のなかでもトップクラスに情緒的な曲で、時間を経ることの苦味とか侘び寂びみたいな、ちょっと演歌のような哀調すらある曲だと思うのだけど、ライブだと明るい演出で楽しい空気の中で歌ってくれる。切なく歌うこともできるのだけど、そうじゃなくて一歩ひいた形で明るく見せてくれる。なんならファンサタイム。結果、皆ニコニコしてる。

 

神戸day1MCで夏川さんは「これまで結構いろんなことで傷ついてきたけど、最終的には笑っている」というような事を話されてました。これすごい好きな言葉です。

ケーブルスモンスターは、色々な感情や事情でがんじがらめになった我々を指して「ケーブルスモンスター」だと言い放つツアーだけど、過去の色々を忘れたフリをして無理に明るく済ます時間ではなく、クソが!とこれを蹴り飛ばす時間でもなく、そういうものを時折ちゃんと照らしながらも、しっかりと力強いパフォーマンスで気持ちを前に向かわせてくれる。

皆で一緒に傷に向き合っていくような流れがセトリの中にあるような感じがする。そして例えばササクレのような、激痛の中で体を捩りながら前に進むような歌を、凄まじい迫力で歌った後、歌い終わりで笑顔を見せたりする。

 

 

総じて、直接「前向けや」という説教くさいことを言われるわけではなく、セトリや演出、MCを勝手に補助線にして、勝手に感じ取っているだけなんですけどね。

 

ただ個人的には、夏川椎菜のライブにある「音楽的な、ものすごい激しさと楽しさ」と、「観客個人を刺してくるエモーショナルな要素」と、それらのバランスや距離感がやっぱり好きで、その感想は今回のライブで確信したものでした。単に曲を歌うだけの場ではなく、何かリアルな感情的な機微が通奏低音のようにあり続けて、MCやセトリの演出や、あるいは演奏の中のアドリブやパフォーマンスに導かれてそれがひょいと顔を出す瞬間がある。テーマに沿った物語演劇を見ている感じすら時々ある。

 

技巧的だと言うのではなく、良い曲を良い音で聴く以上の何かがそこに展開されている、と思いました。

それは夏川椎菜がちゃんと現在進行形の人間として、多分にぐちゃぐちゃした感情を持ちながら、それを隠さずにそこに立っているからだろうと。リアルな人が立っている、演出や演奏など色々な表現でそのリアルさが裏書きされていく、そのおかげで、自分の中のリアルな感傷を引き出されて、ちゃんと検分して前を向く。その時間が好きだなあと思いました。

 

眠れないけど寝なきゃいけない、来週もこのままかもしれない、どうせ周りは宇宙人みたいだし、べろんべろんになっていたい。

ぐちゃぐちゃに色んなものを抱えてきたことを臆せず口に出す人が歌うそういう歌の数々、「それでもやっていこうや」という歌を、同じくぐちゃぐちゃに色んなものを抱えてきたであろう人々がレスポンスする。ライブ終わりに「よかったなあ」と思う時、そういう景色がやっぱり頭に浮かぶわけです。

すごいドラマチックなライブだったなぁ、という感想です。

 

演奏とか衣装とか天才かよと感じるところは本当にまだまだたくさんあって、すっごく楽しいライブだったのは言わずもがななんだけども、行って疲れて、なんかサウナ後の「整う」みたいな、気持ちが軽くなるようなライブでもあったので、そこは忘れないでおきたいなと思いました。

千秋楽いきたかった。。