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自分、不器用ですから:竜とそばかすの姫

広大なインターネット空間を舞台にした細田守監督作品といえば、古くは「ぼくらのウォーゲーム」があり、もうちょっと手前では「サマーウォーズ」がある。この10年来でインターネット空間の描かれ方はかなり様変わりした感があるが、改めて仮想現実をえがく細田守最新作「竜とそばかすの姫」も例外ではない。サマーウォーズ的な、万能なインターネットの世界、あるいは無限に人と繋がり合うことのできる希望的な空間としての描写は影を潜め、理不尽な暴力や他人への不寛容さ、むき出しの好奇心が横行する空間として描かれているから、今作の空間「U」は「OZ」に比べて正直、だいぶ治安が悪い。

 

 

 

 

田舎の女子高生すずが、仮想現実空間「U」を通じて、新たな自分を見つけ、歌姫としての才能を開花させる。その矢先、「竜」と呼ばれる異形の存在に出会う。何かしらの秘密を抱いて世間に背を向ける竜に、すずは妙に惹かれるものを感じていく……。

この粗筋に、「サマーウォーズ」を期待すると拍子抜けする。あるいは「時をかける少女」を、「美女と野獣」を想定すると、やっぱり拍子抜けする。でも期待するなという方が無理な話で、だって粗筋を書こうとするとまんまこのどれかに行き当たるからだ。拍子抜けの理由は後述するけれども、じゃあ「過去作を超えられなかった」みたいな烙印を押すのはちょっと違う気もする。

 

 

「竜とそばかすの姫」は、はっきり言ってかなり奇妙な作品で、ポジティブな面とネガティブな面がめちゃくちゃに入り乱れているし、批判点を10個集めましょうという夏休みの宿題があれば割と簡単にできてしまうようなところもあるのに、一方で体が震えるような体験があったことも事実だ。絶品ではないが、珍味。そういう意味で自分はかなり肯定的にこの映画をみたけど、全然受け付けないって人がいるのも凄く分かる。

 

 

 

何が良かったか。表層的なところでは、映像と音楽はもう100点満点中の120点ぐらいの域に行く。映像が綺麗、音楽に凄みがある、だけの話ではない。うまい。お上手なのです。映像や音楽それ自体が物語を語っている感じがする。ここには相当な技量を割いているはずで、まさに一分の隙もない。

 

例えばすずの仮想空間上のアバター「ベル」は、自分に知識がなくて間違っていたら本当に申し訳ないのだが見た感じおそらく手描きアニメではない。3DCGアニメーションで描かれている。そのベルがカメラを真正面において歌うシーンがあるんだけれど、この場面の力強さは震えが出るほど凄い。演出と映像が一体になった瞬間に成せる技で、一見無機質になりがちなCGアニメの、しかもバストアップの表情を主役にしてこれを成り立たせてるのは脱帽としか言えない。同じレベルに感動したのがアナ雪2のエルサの歌唱シーンくらい。これを和製アニメで見るとは思わなかった。

もっともCGアニメとしてだけレベルが高い映画かというとそれだけではなく、クライマックスのすずの歌唱シーン、最後の(物議をかもす)対峙シーンの表情など、いわゆる2Dアニメでもそう。作画が凄い。しかも、動いていないシーンでも凄い。細田作品のキャラは比較的シンプルな線で、陰影とかもあんまりない。それなのにぐっと心臓をえぐってくるような絵が幾つも観れる。歌舞伎でいう「見得を切る」みたいな場面がかなり多くて、映像と演出、レイアウトや色彩、物語と、いろんなものがピタッと一致して最高得点を出す瞬間の数がかなり多い。

音楽でいえば、すず/ベルを演じた中村佳穂の起用は誰も文句がないと思う。声優と歌唱を一致させたのも英断で、「ああ、すずが歌ってるなあ」と頭で理解するのに一瞬のラグもない。現実世界ではそれなりの屈託を抱え、クラスでも上手くやれてるわけではなく、片田舎の山奥でくすぶっている女子高生が、こんなに力強い歌声を響かせている。この子は実は内側に力強いものを持っているのかもしれない、と思わせる。枷さえ外れれば、人はこれぐらい伸び伸びと、力強く生きることができる。そういう物語上の説得力に挟まる隙が一ミリもない。仮にこれ、歌唱と演技の配役を分けてしまったら、映画の受け取られ方は全然変わったはずだと思う。

 

 

言ってしまえば、「目で見て、耳で聞く」ことに関する芸術点がとにかく高い。しかも「背景だけが綺麗」とかではなく、表現関連の諸要素をまとめあげての得点が高い。この作品が合わない人も「映画館で見た方が良いか」という問いに対しては概ねイエスになるだろうと思う。これはストリーミングで見てしまうのは絶対に勿体無いし、なんならIMAXで見た方が良い。

 

 

 

ではなぜ絶品ではなくて珍味なのか。賛否が割れるのか。

この作品で概ね嫌われるのが脚本だと思う。

 

テーマというより脚本、企画というより脚本。時をかける少女サマーウォーズ共に非常に評価が高いけれども、脚本は二つとも細田守自身ではなく奥寺佐渡子だった。あれを一回見てしまうと、どうしても今作の脚本の粗さが気になってしまう。印象に残るセリフが全然なかったり、「え、そこそうなる?」とか「なんでそうなった?」「普通はそうはならんやろ」みたいに思ってしまう部分が節々にある。もっとも、個人的には「冷静に見たらツッコミどころが多い」というのは映画自体の出来の良し悪しとは違うように思う。映画を見ているうちは気にならない、つまり気にさせない作りになっていれば、多少はぶっ飛んでいたとしてもそれはそれで映画の技だし、ぶっ飛んでいても感動させるというのはそれはそれで凄い技術だ。

ただ、今作は絵作りや場面に力を入れるあまりに、やっぱり話運びに不自然なところがあるし、その分冷静になってしまう瞬間は多い。その結果アウトプットされる「決めカット」に乗れるかどうかが、やっぱり人を選んでしまう。

 

 

乗れるかどうか、が物凄く肝になる作品で、だから賛否両論が噴出するのも凄い分かる。

それに、「竜とそばかすの姫」はSFのような顔をしてSFではないし、ラブストーリーのような顔をしていてもそうではない。だからそれぞれを期待すると絶対に拍子抜けする。この作品は、自作含めた過去作に目配せをしながら、実質的にはそれを超えていこうと足掻くような作品で、テーマ的に同じところに着地しようとしないから、「同じところ」を想定していると拍子抜けする。これ自体は「過去を参照しながら飛躍しようとする」みたいな意味で今作のテーマそのものともリンクしている感じがするんだけれども。

あと、表現そのもののインパクトに身を委ねて、細かいことはいいか、と気にしない姿勢を取れないと、これもやっぱり拍子抜けする。これは結構、人による。

 

 

 

だからここから先はあくまで超個人的な感じ方の話になる。

そういう脚本的な粗があって尚、それでもやっぱりインパクトを感じたのはなぜか。

 

それは、結局、最初から最後まで徹頭徹尾、物凄くパーソナルな作品だったからだと思う。

エンタメ作品のような顔をして、実のところ全員を楽しませるんじゃなくて、ある特定の人に向けて凄く尖らして作っているような。

少なくともここを最後までブラさなかった。

 

 

欠点の一つとして見る人もいると思うんだけど、この映画は結局、主人公すずの精神的な脱皮の話しかしていない。外側にある仮想現実の話も、社会の話も、世界の話も実はしていない。やろうと思ったら、仮想現実空間の暴力性についての新たな批評もできたと思うのに、その辺は中途半端にやって、すぐにすずの話に戻る。それだけこの映画は、すずしか見ていない。

 

前作の「未来のミライ」がホームビデオと言われてたらしいけど(見てないけど)、それでいうならこの映画は「女子高生の日記」だと思う。ずっと、すずにスポットライトがあたる。隣にいる人の話は、ぎりぎりライトが当たる範囲に入らなくて、つま先ぐらいしか見えてない。竜は多分、肩ぐらいは入ってるかもだけど。

 

基本的には、すずがいかにトラウマを捨て、身の回りにある残酷さや不寛容に向き合い、自分の本当の気質を探り当てて行くか。そういう精神的な放浪の話しかしていない。言ってみれば、視界をあえて物凄く狭めている。

だから、すずのトラウマの話は丁寧にやるのに、Uの世界観設定の話はぱっぱと終わる。「そういうもの」として切り捨てられる。すずの友人、知人についても掘り下げない。イケメン幼なじみの話も大してしない。一緒に歌ってくる5人のおばさんたちの話もしない。父の話もしない。犬に片足しかないことも説明しない。みんな意味ありげに見えるのに、意味はそこに与えない。

 

「U」と学校の教室も、本質的にはそんなに違いがない。どちらも安心や生きやすさではなく、生き辛さに視点があたる。この感覚は、確かに今の時代に生きる若者の感覚にあっている。設定とか抜きにして、現実とネット空間は同じぐらい生き苦しい。今の時代はそういうものだから。

だから、「U」の世界観や基本設定はさっさと飛ばして行くわりに、人の罵詈雑言や勘ぐり、邪推は存分に描かれる。「竜は誰だ」の犯人探しと学校の「誰があいつに告ったのか」の邪推祭りの間に大きな違いもない。結局、現実世界もネット空間もそんなに違いがない。辛い、しんどい。しんどいところはこの映画はちゃんと描く。なぜならすずがしんどいから。

 

すずの目線にたって描かれる世界で、すずの話をする。だからすず以外の部分はほとんど説明をしていかない。

全てがすずを前提にして進む。映画としても、すずの精神的成長を描くために文字通り「なんでもやる」。だから、クライマックスにすずが「一人で」立ち向かうのは映画のテーマ的には必然性があった。すずのための物語であればこそ、あそこは絶対に一人じゃなきゃダメだった(問題はそこの脚本上の辻褄合わせが追いつかなかったということで)

 

 

そういう風に見ると、この映画は結構めちゃくちゃな事をやっている。

ここまで壮大な世界観を扱っているにも関わらず、焦点を当てている範囲がすごく小さい。

だから色んなところに無茶が生じてしまう。でも、多分、あえてやっている。

 

 

なぜ、そこまで無茶をしてでも、すずを描くのか。

これはひとえにすずが観客一人一人にとって、映画という世界のでアバターだからだろう。映画を見終わった時に、精神的に何かが変わった感じを与えたかったからだろう。Uでの変化がすずに変化を与えたように、映画が終わった時に、観客を変化させたかったのだろう。この映画は文字通り、すずという不器用で引っ込み思案で、なかなか世間に居場所が見つけ辛い少女が、恐怖に震えながら世間に向けて歌を歌い、傷つきながら誰かのために行動する姿を示すその姿に、あなた、つまり観客が自分を見つけて欲しいと思ったんじゃないか。

お前は実は強くて優しいのだと、世界は大変残酷でヒリヒリしていて戦場みたいだけれどもお前は実は大丈夫なのだと。そういう事を、圧倒的な表現にくるんで手渡そうとしている感じがした。色々不器用なところはあるけれども、それでも「お前は」大丈夫だと言おうとする力強さみたいなものがあった。

最後のUのメッセージは、そういう意味で観客に対して言っているようにさえ聞こえた。

 

だから、パーソナルなものとして受け止めることができれば、つまりこれを自分の話として受け止めることができれば、多少の粗は抜きにして、凄く乗れる。人によってパーソナルなものとして受け取るための準備や段取りが異なるから、評価が割れるのかもしれないとさえ思う。

ファンジターを積極的に描けるアニメ映画だからこそできた無茶苦茶さも確かにあるけれど、この映画を見て「すずはまるで自分みたいだ」「もしかしたら自分も何かを変えられるかもしれない」と感じる、特に若い子はいると思う。そういう人にとって、世界観や設定や物語の粗以上に、すずの精神的成長、すずがいかに世間に向かって素晴らしい歌を歌えるか(比喩的にも)の方が気になるし、そこはちゃんとしっかり描いた映画だったと思う。作中でベルの歌声を「変な歌」「だけど」「自分のために歌ってくれてるみたいだ」と評す声があったけど、多分この映画はそういうところを目指していたんじゃないか。

 

良くも悪くも、インターネットと現実が同じぐらい残酷な世界で、自分を殺して生きている全ての人にとってのおとぎ話だ。率直にいうと、思春期の頃に見たかったなあと思った映画だった。感じ方も幾らか変わったと思う。