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ラブ&ポップ:シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

シンエヴァを観てきた。一週間ぐらい前に。

記念碑的な作品だし、何かしら感想を起こしておきたいと思ったのだが観終わってなかなか言葉が出てこない。それでいろんな人の感想を巡ったり、考えたりしているうちに、時間が経ってしまった。これ以上熟しても何も変わらなそうなので、思いつくままに書いてみることにした。

実に散漫になりそうな感じがする。この作品について話されている感想はだいたい長文が多いんだけど、これもそうなりそうだ。多分、誰にとっても考えをまとめるのが大変な作品なんだろう。

途中からネタバレ含む。

 

 

 

エヴァについて語る時、大体が皆、個人史に触れざるを得なくなっているのは不思議だと思う。つまり自分がどのようにしてこの作品に出会って、どのように受容してきたかみたいな話が出てくる。それは単純に作品のパワーや時代性云々の理由もあるだろうけど、ひとえに作品が世に放たれてからとても時間が経ったことが関係していると思う。数えれば25年。最近になって終わったシリーズを上げれば、トイストーリーや(とりあえず終わったことになった)スターウォーズ、日本のアニメでいうとデジモンアドベンチャーの劇場版なんかも同じような引力を持っていた。どれも作品について語る時に、どうも個人史を踏まないといけないような気持ちになる。最初から終わりまでに、とても時間が経ったからだ。その時間に触れる時に、どうしたって自分の人生を無視することができない。

 

 

そうして御多分にもれず個人的なことを語れば、エヴァに出会ったのはリアルタイムではなく少し遅れてからで、でも高校生ぐらいの頃だった。変な言葉かもしれないけれど、生理的に好きな映像だった。あのカット割りや独特のテンポ感、動き、あるいは動かなさ、音楽の使われ方、幕の閉じかた。動は思いっきり動で、静は死んだように静。語弊を恐れずに言えば、それまで観てきたアニメとは違って、ある意味ではお行儀の悪いアニメだった。キャラがセリフを話した直後にぶつんとカットを切ってしまう感じとか、重要な点をチラ見せするけど最後まで隠しちゃう感じとか、結構不親切なことをやってるのに、かっこよかった。あれだけ血が流れるアニメ映像というのもほとんど観たことがなかった。暴力的なことをしているのに、物凄く力を感じた。あれだけ死や孤独や拒絶についてを延々と語っているのが新鮮だった。死を通じて反語的に生を、孤独を通じて反語的に連帯や協調を語るような切り口も斬新だった。とても夕方6時帯に流れていたことが考えられない。前後の時間帯に健全な子供向け番組がやっていただろう事を考えても、とんでもなく不良なアニメだったと思う。BPO的には気が気じゃなかったんじゃなかろうか。

 

 

例えていうならあれはロックだった。こういう作品があってもいいのか、と思った。衝撃だったし、でもその異様な在り方はとてもあの当時のキブンにあっていた。異様なのに、ちゃんと成立していた。異様であることと成立するということは矛盾しない。個性的で異端であることは良し悪しとは関係がない。だからエヴァを中高生の時期に見れたことは、自分の人生においてとても幸せなことだったと思う。それまでは歌謡曲しか知らなかった人間が、ロックの洗礼を受けたようなものだ。あの年齢だから、綺麗事ではない情念の塊みたいな作品を馬鹿正直に受け止めることができた。それによって、過大な言葉を使ってしまうのであれば、自分の人生観や感性に少なからず決定的な影響を与えたんだと思う。

 

 

長々と書いたが要するに原体験なのだ。青春時代にロックの洗礼を受けた世代は、その後ずっとロック的な何かを引きずることになる。シンエヴァを見るにあたってTV版と旧劇場版を見直すと、やっぱりあの独特の映像の節回しなんかはめちゃくちゃカッコいいと思ってしまうのだが、同時に割とそれが脊髄反射的な反応であることも自覚してしまった。「僕らより一回り二回り上の世代の人たちが、ある種の音楽を聴いて脊髄反射的に起こす反応」のそれと近いんだろうなと、なんだか冷静に思えてしまう自分もいた。

自分の脊髄の深いところまで染み付いた感性の回路は、自我を形成する一つの拠り所であったと同時に、言葉を変えれば呪いでもあるのだと思う。

 

 

エヴァンゲリオンを撮り終えた庵野監督はその後実写の方へキャリアを進め、「ラブ&ポップ」という作品を撮った。当然といえば当然だが、タイトルから想像されるようなラブでポップな作品ではなかった。もともと村上龍の同名小説の映画化なのでこのタイトルに監督の責任はないと思うが、「デス&アバンギャルド」の権化みたいなエヴァの直後だった事を踏まえるとやや皮肉みたいに見えた。その後の「式日」しかり、冷ややかで鉄の匂いがして目まぐるしくて鬱々としていてしかし豆電球程度には仄かな明るさがある作品だったが、当時は耽溺するほど好きではなかった。いやまあ好きだけど何かが違う。なんだろう、日本のロックシーンを沸かせたバンドが、海外へ乗り込んで四苦八苦する様を見ているような居心地の悪さがあった。

 

だから新劇場版が始まると知った時にはとても嬉しかった。あの鮮烈な映像体験が再び帰ってくる!それも4部作!新作も含まれているとはなんと贅沢な!スケジュール的には数年で完結まで行き着くと当時の自分は信じ込んでいた。結果については語らない。

 

一つ言えるのは、当時「おおこれがロックか!」と湧いた若者は、完結を迎える頃に随分歳を取ることになり、人生のステージも変わり、ものの考え方も変わり、脊髄に染み付いたエヴァ的な感性の上に、さらに様々な人生経験が層を成して積もっていった。つまりは変化したのだった。どれくらい変化したかといえば、TV版3話でシンジ(初号機)がキレる若者よろしくナイフを携えてシャムシエルに突撃していくのが、なんだか非常に気の毒なシーンに見えてしまう程度には変化した。昔はすごくかっこよく見えたもんだけども。

 

もっといえば、出てくる登場人物がどいつもこいつも気の毒でしょうがなかった。TV版と旧劇場版をおさらいして、序・破・Qも(QはIMAXまで見に行って)復習して、最終的に思った感想は「頼むからこの人たちを幸せにしてほしい」だった。キャラそれぞれの苦しみを煮汁にして飲み干して「しみるぜ」みたいな事をやっていたのがうん10年前の話だとしたら、もうそういうのはいい。いっぱいいっぱいだ。観客とはなんてワガママな存在だろうと思うが、もう喉が持たないので、爽やかなジュースが欲しい。そうしてそれぞれの人物を、物語を終わらせてほしい。そしてかつて若者だった我々に「もう時間が経ったのだよ」と区切りをつけて幕切れにして欲しい。エヴァが終わることによって、人生は不可逆的に流れていたのだという事を知りたい。そんな気分になっていた。

 

 

 

そういう気持ちでシンエヴァを見に行った。

 

(以下ネタバレ)

 

 

何が起こったか。すごく元気がでた。元気が出るエヴァンゲリオンってなんだそれと思った。でもそうだったのだから仕方がない。あんなに晴れやかな気分で映画館を出たのは久しぶりだった。

 

作品として決して尖っているわけじゃない。デスでもアバンギャルドでもない。でも、ラブ&ポップだった。慈愛と躍動感に満ちていた。綺麗に終わるということがこれほどのパワーがあるものなのかと驚いた。大げさかもしれないけど、エヴァンゲリオンという作品を通じて思い起こされる、それぞれの時代の、当時の気分みたいなもの、陰も陽も含めたいろんな人生の出来事を、綺麗に終わるというその一芸でもって全肯定されたような感じがした。初視聴時の頃を、新劇場版を見に行った当時を、美しい思い出として昇華してくれた感じがした。紛れもなく、現実を生きている自分たちに向けて作られた作品だと思ったし、そういう意味では旧劇場版と同じテーマなのかもしれないけれど、あれより遥かに優しく、暴力的でないが故に、はるかに力強かった。

 

 

どの場面も白眉で、1場面ごとに感想を書き出したらキリがないのだけれど、特に第三村の場面は語り草になるんじゃないかと思う。陰鬱で鉄っぽい世界観の対極にあるような鮮やかで晴れやかな空気は、全くこれまでのエヴァっぽくない。人が肩を並べて生きていく姿を淡々と描写して、人が生きている姿それだけで人間が回復する様を描く。どんな設定や語りよりも映画の展開に説得力を持たせているのがこの場面だと思った。言ってしまえばこの場面で、エヴァの空気感みたいなものをガラッと変えてしまった。人間が前向きに汗を流して生きていく、他人と他人で手をとりあって生きていく。悲惨な出来事があった世界の上で、畑を耕し、種を植えて、生を繋いでいこうとする。陰鬱で内省的な世界からの解放という感じで、非常にお行儀の良いアニメーションだったことに驚いた。もしこれが十数年前に提示されていたら、多分受け入れられなかったと思う。エヴァっぽくないと。ただ、受け入れられる程度に我々の側でも時間が経ったし人生の見え方も変わった。こういうエヴァがあってもいいんじゃないかと。作り手の方でもそうだったんじゃないかと思う。丸くなった、といえばそうなのかもしれないけど、その丸さがとても心地よかった。

 

丸くなったとはいえ、映像の鮮烈さはどこを切り取っても凄まじいものがあった。特に新劇場版は毎作ごとに新しい映像感覚が観られて新鮮だったのだけど、今回もそれは同様。第三村の静謐な描写に限らず、立体的なカメラワークを取り入れた戦闘シーン、様々な映像タッチを織り交ぜながら怒涛のように語られる心理描写など、見どころをあげたらきりがない。個人的に、アスカがシンジに飯を食わせるシーンのカメラワークが衝撃的すぎて言葉をなくしたのだけれど、あれはどうやって作ったのだろう。序・破・Qと同様にメイキングが楽しみな映像ばかりだった。IMAXはまたすごいんだろうなと思う。

 

 

そしてキャラクター。今回のシンジはちゃんと人間に向き合っていこうとする。逃げない。その姿勢で、これまでずっとやってこなかった事をやっていく。父と対話する。友人の苦悩と向き合う。保護者と苦悩を分かち合う。大人になったなあシンジと思った頃に、父ゲンドウが「大人になったな」と言うわけである。

シンジが向き合った時、相手もちゃんと向き合ってくる。父は子を理解し、友人は解放されて、保護者は理解を得る。そういう人同士の交感みたいなものが節々に観れた。これまでは観れなかった姿、ずっと見たかった姿だった。本当に嬉しかった。

 

シンジくんが大人になってくれて良かったと思ったが、それは同時に、苦悩するシンジをこそエヴァという作品の中核に据えていた自分に気づいた瞬間でもあった。シンジが苦悩し、逃げようとしたからこそ、かつてのエヴァには独特な引力があった。現実世界の色んな面倒臭さへの拒否反応を共に分かち合えるキャラクターだったわけだけれど、今回のシンジは逃げない。逃げないシンジは、エヴァ的ではない。だからエヴァは終わっていく。シンジの姿は、現実世界に昔ほど拒否反応を抱かなくなった自分たちともリンクする。なんとか現実世界の泳ぎ方を知った今の自分にとって、共感できるのは今のシンジの方だった。多分、今回もいつものエヴァのように、シンジが世迷言を言って、他人を拒否して、内省的な世界観で終わって、誰とも向き合わないラストだったら、自分はもしかしたらホッとしたのかもしれないけど、確実にすごく悲しかったと思う。今回はすごく衝撃的だったと同時に、とても嬉しかった。

 

そう、嬉しいことばかりの映画だった。誰もかれもが救われた。確かにベタベタな大団円かもしれないけれど、それが今は何より嬉しかった。コンテンツが終わるということが嬉しかった。長い作品の終わりは、確かにそこに時代があったことの証左だと思う。これをもってようやく、90年代からいまに到るまで、長い時間が流れたという事を体感できたような気がした。それはこの終わり方を、良かった、と受け止められる自分を発見して、そこに時の流れを感じたからでもある。

 

エヴァという作品の在り方が変化し、キャラクターも変化し、その様々な変化を、すごく肯定的に捉えることができた。それは作為的に設計された映画の中の何か、、第三村に見られたような明るい変化や、その後のキャラクターの変化だけが理由ではない。単純に自分たちの側の変化、時間の流れと、作品内の描写が呼応して自然と為したものだったと思う。時間が流れる事を肯定的に捉える描写が節々にあって、それをとても優しいものとして受け止めることができた。だから、本来は悲しいはずの終わるということさえ前向きに見れた。終わるっていうのも悪いもんじゃない。

 

 

エヴァが終わった。終わったということは、これまでの長い時間にエヴァがあったということだった。

でも終わって、何もないところに放り投げられたという感じがしない。少なくとも自分には、虚無感がない。結局のところ、この作品は今後の人生においても何かしら残像のように焼き付いて残るんだろうと思う。ただ、それは呪い的にどこか暗いところへ引きずっていくようなものではなく、もっと手軽な携行品、あるいはお守りみたいな軽さと明るさだと思う。ほんとにこれはうまく言えないけど、良かった、という明るい感覚がずっと残っている。

 

終わって、さて何をしようか。と、前向きに考えられるラストだった。

実に綺麗な「終劇」だった。