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早く人間になりたい:Detroit: Become Human

「Detroit: Become Human」は、アンドロイドが生活に不可欠になった近未来を舞台に、人間性とは何かを問いかけるアドベンチャーゲーム。高精細なグラフィックと、俳優のモーションキャプチャーによるリアルな演技、選択肢によって大量に分岐するシナリオ、そして何より感動的な物語は、ゲームならではの没入感でもって「ほとんど映画」の域に達している。PS4の名作に数えられるものの一つ。

 

PS4をProに買い換える時にちょうどキャンペーンをやっていて、無料で任意のソフトをダウンロードできると言うやつだったのだけれども、そこで手に入れてずっと積んでいた。今考えれば、このクオリティのソフトを無料特典でつけるのは相当な大盤振る舞いだった。

 

デトロイトPS4の作品なのだけれども、面白いのはPS4より一世代前の段階である意味完成していたんじゃないかということ。PS3が発売される前だったか、いくつかの技術デモが作られていて(その中には、FF7のオープニング「だけ」を作り直したものもあり、すわリメイクかと空騒ぎしたがそれは別の話)、その中に「カーラ」という短編映画があった。アンドロイドが生まれ、自我を持ち、生きようと臨む姿、そしてそれを見て人間が何を感じるか。デトロイトの企画が始まる前の話だったらしいが、すでに作品の核心的なテーマがここに凝縮されているような感じがして、率直にいってものすごく良くできている。テンポや演出もよくて、ほんとに短編映画として良くできている。

 

 

 

アンドロイドが自我を持って暴走するというのは、まあ古典的な筋書きではある。そうした作品とデトロイトが異なるのは、我々が「暴走する側」にいるということ、そして実際にその側に「立つ」ということ、つまりアンドロイドとして、暴走の仕方を自分たちで決められるということだ。感情を持ったアンドロイド達は社会における正当な権利、生きる自由を要求しだすが、それをどのように求めていくかは自分自身で決めることができる。このゲームでは殆どの決定的な判断を自分で決めることができるから、人間に徹底的に暴力的に抵抗することもできるし、平和的な交渉を持ちかけることもできる。

 

 

 

自分はガンジーよろしく非暴力不服従を貫いた。でも「ゲームだから理想的な振る舞いを取るだけであって、現実にこういう事態が起こったらどうなんだろう」とはたと考えてしまう瞬間があった。自分で操作して自分で運命を決める分、出来事を自分ごとに捉えてしまう機会に満ちている。多分、そこがこのゲームの最も面白いところで、血肉の通わないアンドロイドの感情的な行動を通して、「お前はどうなんだ?」と自身の人間性を問われるような体験ができる。つまるところ、人間とは? このゲームのアンドロイドは人間の鏡写しの存在ではあるが、虚像ではない。だから描かれるドラマに感情を揺さぶられるんだろう。

 

 

一方、結構ゲーム的には融通がきかないところもあって、シナリオ分岐が無数にある上に選択肢も多く、一歩間違えてわけのわからないところで死んでしまうとそれまでの物語の流れが台無しになったり、進め方次第では伏線が回収されないまま終わったりする。映画的な表現を重視してか、キャラクターは殆どの場面で走ることが出来ないのでゲームスピードもゆっくり目。個別の選択肢をやり直すことはできず、クリア後にチャプター単位での再開になる。ゲーム的であろうとするためにQTEがかなり多いので、没入感はあるものの疲労感もある。そういう感じで、映画とゲームの中間を行こうとした結果、二つのメディアの良さがばちっと噛み合うところもあれば、そうではないところもあったりはする。ただ、そうした色々を補って余りある世界観の深みと感情の体験を与えてくれる作品だからこそ、今だに名作として名前が上がるんだと思う。

 

 

技術デモ「カーラ」でもそうだったが、人間的な感情を想起されるかどうかに、相手が人間かどうかというのはそんなに関係がない。どんなに高精細に描かれていてもデトロイトはゲームである。つまり虚構。つまりプログラムされたものに過ぎない。アンドロイドの行動によって周囲の人間が影響を受けていくという筋書きはいわば自己言及的なものがある。プレイヤーは確実に、アンドロイドと人間を隔てる違いについて考えるし、それが殆どないと言うことにも気が付いていくし、その上で「では人間性とはなんだ?」というSF的な深淵な問いに向き合っていく。多くの優れた小説や映画がやってきたことをゲームでもやろうとして、実際にやれたということ、その挑戦と成功は天晴れの一言。