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夏川椎菜の「コンポジット」:2022年触れてよかったもの

AppleMusicに今年多く聞いた音楽をいろんな観点からピックアップしてくれる機能があり、試しにやってみたら夏川椎菜まみれだったので笑う。一番聞いたアーティスト、一番聞いた曲、一番聞いたアルバム、どれをとっても夏川椎菜だった。今年を思い返してみれば、忙しかったこともあって映画や本に触れる機会が激減し、余暇時間自体が少なかったのだが、そのわずかな時間を投じた先がどこだったのかを端的に表すランキングである。それにしたって極端すぎて笑う。

 

何がきっかけでそんなにハマったのかというと、直接的には2ndアルバム「コンポジット」が理由だった。

間接的には文化放送の深夜ラジオ、CultureZが理由だった。

ちなみに自分はもっぱら声優文化には疎い。アイドル文化にも疎い。夏川椎菜にハマる人の多くが入り口に挙げるアイドルマスターにも疎い。だからそういうジャンルについて語る時に押さえるべき作法やテーマにことごとく明るくないままこれを書いていて、やや申し訳なさのようなものを感じている。

そんな自分が夏川椎菜を知った入り口はバイオRE2のゲーム実況で、そこから手作り感の強いYoutubeチャンネルを経て、深夜の生放送ラジオ番組月曜CultureZに行き着いた。生放送で2時間喋り続けるのはなかなかの難題だと思うが、難なく乗り切る力量には舌を巻く。ともあれ、そうした安定感のあるラジオDJっぷりを楽しんでいた身からすれば、夏川椎菜は声優やアイドルではなく完全に「近所の面白いねーちゃん」みたいな立ち位置だった。

 

そういう認識に異変が生じたのはコンポジット発売前からで、ラジオでかかる先行発表曲がどれもこれも全くハズレがない。これまで散々無料コンテンツ(Youtubeもラジオも無料なわけで)で楽しませてもらっていたのだからとお布施の気持ちで買った「コンポジット」が、端的にいえば自分にとってド名盤だった。近所の面白いねーちゃんは近所のすげーねーちゃんになった。

 

さて、アルバム「コンポジット」は、喜怒哀楽をテーマに、バンドサウンドを全面に押し出した楽曲で構成された夏川椎菜の2ndフルアルバム。最初に聴いて思ったことといえば「これを学生の時に聴けていたら」という感情だった。漫然とした日々のままならなさ、うっすらと漂うネガティブな気持ち、そういう繊細で生々しい感情の機微をロックとポップスの文法で明るく柔らかく包んだアルバムだったからだ。音も言葉も好きなアルバムを、一番多感だった頃に受け止めておきたかった。

 

前提、作りがしっかりしているアルバムだった。一つには全体の構成が非常に端正。喜怒哀楽の4つのテーマから構成された楽曲群は、それぞれの楽曲とその感情の間に明確な仕切りがあるわけではなく、アルバムを頭から順番に聴いていくとグラデーション的に空気感が変わっていく。前の曲の空気を引き受けながら次の曲に感情のバトンを渡すようにつながっていく様はすごく綺麗だし、そうして溜め込んでいったものが、最後の「楽」に向けて徐々に解放されていく感じは何度聞いても楽しい。

(余談。今書いて思ったけど、最後を飾る楽曲「クラクトリトルプライド 」は「苦楽とリトルプライド」に変換できる。「Cracked little pride」の当て字かとなんとなく思っていたのだけど、どっちも一応意味が通じる)

 

二つには音作り。全体を通してバンドサウンド主体で構築されていて、音が気持ちが良い。特にベースやドラム周りの音がやや主張する感じになっていて、足回りのしっかりした演奏が最後までずっとテンションを引っ張っていく。「夏川椎菜とは何者なのか」という公開イベントで、確か「歌声よりも演奏を聞いて欲しかったから、演奏の音を強めに出すようにした」という話が出ていた気がするけども、そういう意味ではやっぱり「音と演奏」、ひいてはその生々しさや迫力、艶やかさや軽やかさをしっかりと披露することに重きがあったのだろうし、それはしっかりと成功している。

 

こういう作り込みを土台においてなお輝くのは、夏川椎菜というアーティストの精神性とロックミュージックの相性が抜群に良いということ。ここでいうロックは、真正面から突っ張る、反逆的な、反体制的なロックという意味とは少し違う。盗んだバイクで走り出すこともしないし放課後に窓ガラスを割るようなものでもない。薄暗く生きている日陰ものに寄り添うささやかな救いとしてのロック。それは例えば、眩しく輝いている誰かと自分を比較し、傷ついて直視できなくて目を背ける時、それでも別にいいじゃねえかと心の中でつぶやく時のような精神だ。現実への小さな反抗や不安を荒削りな言葉や音色で肯定するのがロックだとすれば、コンポジットはまさしくその精神の暴風圏で作られている感じがする。

そもそも夏川椎菜の楽曲は(本人が作詞しているものも含めて)、余所の世界観や物語を語るものや、いわゆるアイドル的な恋愛曲みたいなものが少ない。むしろ、自分の現状に関する内省的な言葉と、その裏側にどこか微かな「怒り」や「悔しさ」のようなものを漂わせている曲が多い。そういった、いい意味でアイドルらしからぬ初期衝動が生々しく残る作風に、バンドサウンドによるロック寄りの演奏というコンセプトを与えたところ、鮮やかな化学反応が生まれたのが「コンポジット」なんじゃないかと思う。

 

多分、自分がコンポジットにどハマりしたのは、この滲み出る「うっすらとしたネガティブな感傷」に惹かれたのが大きかった。この感傷は何かと言えば、例えば学生時代の一人の帰り道や、大人になってからの眠れない夜や、そうした人生の節目節目に感じる置き所のない孤独感と地続きの、人生や現実に対しての劣等感のようなもの。

ままならぬ現状に対していつかどこかで反旗を翻してやろう、と思いつつ、一人で急に足を踏み鳴らすような大仰な仕草はできない。そんなクソザコナメクジ的な自分自身に強烈な共感性と連帯意識を示してくれているのがコンポジットであり自称「クソザコ」な夏川椎菜のアーティストとしての精神性なんじゃなかろうかと思う。多くのファンの方々が1stアルバムの頃から惹かれていた部分は(もちろん、魅力は多彩多様にあるだろうけど)、こういう「親近感」にあるのかなと思う。

夏川椎菜は決して私小説的な歌を専門的に歌うシンガーソングライターでもないし、いわんや専業の歌手ではないし、というかそもそも声優というある種「なんでもやらなければならない」、全力で器用貧乏を求められる立ち位置にいる。そこで歌う歌は多くの人間に求められるアイドル的な像を無軌道に逸脱することはしないし、輪郭線の中に収まり続けはする。けれども一方で個性や我のようなもの、荒い感情がその線の上にはっきりと滲み出してくる。だから聴いていると、アイドル的なポップソングを聴くのとは全然違う感情が湧いてくる。それは劣等感に震えた夜や、作り笑いで過ごした飲み会や、あいつなんなんと思いながら頬杖をついた日々の思い出だったりする。それでも決して重くなりすぎはしないし、何か重厚な哲学や思想や退廃が啓蒙されるわけでもない。

ただ、「なんなん」と思う。その軽さが良い。その軽さが肩の荷をすこし持っていく。聴いているといろんな感情が湧いてくるが、聴き終わると必ず明るくなる。

もちろん夏川椎菜の魅力はここだけではないのだが、こと自分にとっては、入り口が深夜ラジオだったこともあって、良い意味ですごく深夜っぽい世界観が刺さった。こういう「ままならない」に共感しつつ力をもらえる作品に出会えることは、人生において絶対に必要なことなのだと思う。

 

なんだか脱線したような気がするが、そういういろんな理由でもって「コンポジット」は、まるで人生に困った時に同じ本を開くように、無事にヘビロテ対象になった。バンドサウンド主体のこのアルバムは絶対にライブで化けるだろうと思ってライブにいったら、予想の一段も二段も上回って化けて出てきた。暗くて激しいし重い、けれども明るくて穏やかで軽やか。そういうライブだった。とても良かった。

 

重すぎるのはもういいし暗すぎるのももう勘弁なのだ、そして往々にして夜の深いところ、1時や2時の時間はそういう時間になり得る。2022年はいろんなことがあった。少しぐらい明るい夜があって良い。月曜CultureZが終わらないことを毎回聴き終わるたびに思う一年だった。