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二十数年後の旧劇

旧劇場版エヴァを映画館で観るという体験ができたのはシンエヴァ公開の恩恵だったのだが、肝心の新作の方が延期になってしまったので、映画館に向かう足取りがなんとなくふわふわしてしまった。本当ならば旧劇鑑賞後の数日後にはシンエヴァを観れていたのかもしれないという思いが抜けなかった。まあ、成ってしまったものは仕方ないので、割り切ってゴジラヘッドの東宝に向かったのが、数日前のことである。

 

旧劇は何度かみたのだが、映画館ではない。DVDとかの類で観た。これはちょっと勿体無い体験の仕方だとずっと思っている。あの、スクリーンから指をさされた挙句、黒々と「終劇」の文字を叩きつけられて余韻の一切を待たずに映画館に取り残される感覚。これはDVDやテレビ放送では味わえないだろうとずっと思っていた。それもあって、旧劇を劇場で観れた僕らより一個か二個上の現役世代の方々に対して、羨ましい思いがずっとあった。きっととてつもない混沌と熱狂があったのだろう。90年代も終わりに差し掛かる頃の盛夏の狂乱。遅れてきた世代は、どうしたってそれを伝聞でしか味わえない。

 

ゴジラヘッドのTOHOシネマズは昔はコマ劇場だったかと思うが、その界隈には近づいていなかったら全然記憶になくて、ゴジラヘッドになってから、少し治安の交通整理がなされたのか雰囲気が変わって、それでようやく足が向くようになった。元コマ劇で旧劇を見るというどこか象徴的な体験ができるのも時代の恩恵ではあるが、そんな風に思うにつけ、シンエヴァの延期が頭をよぎって悲しくなる。成ってしまったものは仕方ない。

 

 

今回のリバイバル上映はご丁寧に「DEATH(TRUE)2」編から始まってくれた。昔からこの総集編の尖りまくった編集が好きだった。視覚というより聴覚に訴えてくるようなテンポの気持ち良さがある。テレビ版とは全然異なるテンポで物語が語り直される。時間や場所を猛スピードで行ったり来たりして、どんどんテンションが高まっていって、最後には糸が切れるみたいに高揚が静止して、湖畔に真っ赤な夕日が沈むエンドロールに至る。

 

ちゃんと「休憩」が挟まれる。上映中に「休憩」が挟まれる映画を映画館で見たのは初めてかもしれない。ざわざわとトイレに立つ人が出る。戻ってくると結構ギリギリだった。本編と呼んでいいのかわからないが、Airが始まる。何度か見たとは言え、それでも見たのは随分前のことだ。でも、意外とちゃんとセリフを覚えていた。

 

旧劇はなぜか見ると少し元気になる。今見るとやや説教くさく感じるところはあったとはいえ、強烈な個性の濁流に飲まれるような感覚は、確かに映画を見ているという気持ちにさせられる。監督がフィルムに焼き付けた情念みたいなものがでかいスクリーンから飛び出してくる。

 

もっとこう、エンターテイメント的に整えて、手順を踏んで、語りたいテーマの核心に導いていくような手法もあったのだと思うが、そうではなくて、叩きつけたい言葉を胸から取り出してそのまま冷まさずにフィルムに押し付けたような乱暴さがある。どうしてそういう事をするんだろうという気持ちになるが、それはそのまま他人の不可解さだという風にも思う。多分何かしらそうしたくなる理由が作り手にあったのだ。僕らにはよく理解できないだけで、そういうものなんだろう。この映画を初めて見たのは随分昔のことだが、それ以来、よくわからない表現を見ても、何かそうせざるを得ない事情や理屈や気持ちがあったのだろうと感じるようになった。なんというか、映画の見方の根本に影響を与えられたような感じがする。

 

徹頭徹尾、他人という存在がグロテスクに描かれている映画なのに、そういう気持ち悪さを抱えた世界を映像や音楽でどこか神聖に飾って、「観れる」ようにしているのが、この映画の優しさだと思う。

 

最後の「気持ち悪い」にはやっぱりゾワっとした。映画館が明るくなった。視界にポツポツと他人が映って、その誰もがどんな感想を抱いているのか分からない。同じ箱の中に不可解な何かが収まっている、と感じると、明るくなった映画館で再びゾワっとした。人がいる映画館というのは良いものだと思った。早く満員の劇場で新作が見たい。