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読書と映画と小説と、平熱的な日々のこと

ゲームを捨てよ、森へ出よう:ライフイズストレンジ2

続編とは因果なものだと思う。続編とは悲しいものだと思う。続編とは難しいものだと思う。作る側も、受け取る側も、いつだって前作が念頭に置かれてしまうのが続編の宿命だが、同じことをやれば二番煎じと嘆かれるし、違うことをやれば期待を裏切ったと言われかねない。前作や前例がなかった頃に戻れたら、、と夢みるのは、作り手はもちろん、受け手だってそうだろう。

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自動販売機のこと

朝歩いていると目の前が影に遮られて、なんだと思ってみたらトラックで、その荷台には巨大な墓石というか棺桶みたいなものが直立しており一瞬なんだか分からなかった。真っ赤に白抜きの文字で何か書いてある。飲料メーカーのロゴである。自動販売機がこちらに背を向けて立っていることに気づくと、それが荷台に二つも三つも横並びになっているのが異様に思えた。まずもって、自動販売機が自動販売機として機能していないところを見たことがほとんどないし、後ろを向いているのをみたこともないし、運ばれているのをみたこともない。しかしこうして、目の高さよりも上で直立していると、本当に巨大な、色鮮やかな墓石じみているなあと思う。トラックは信号待ちでしばらく止まってから、どこかへ走り去っていった。

自動販売機といえば。昔、とっくに名前は忘れてしまったがどこかの社会学の先生だったかが記した文章で、自動販売機症候群みたいな名前の事例を紹介しているのがあったことを思い出した。ある種の若者を指してそう呼んでいたのだが、曰く、社会的に孤独で、孤立した若者たちが、夜な夜な人ととの関係を求めて向かう先が、人ではなく自動販売機であるという主旨。夜中に起き出して、自動販売機にワンコインを入れて飲み物がガコンと落ちてくるその反応で孤独を和らげるのだ。彼らは飲み物が欲しくて自動販売機に向かうのではなく、誰かの、あるいは何かの「反応」を欲して自動販売機へ向かうのである。そこに若者を取り巻く孤独が表象されている、、みたいな論調の文章だった。

読んだ当時はへえと思ったが、今となるとうまく信じられない。夜中の路上にポツンと光を落として低く唸る自動販売機の姿には都会的な孤独を感じさせるものがあるし、そこへ吸い寄せられるひとりぼっちの若者の姿というのもこれまさに都会的な孤独という感じがするが、この物語性のある絵面だけみれば説得力があるにしても、インターネットやなんやらが大量にある世の中にあって、あえて自動販売機と若者が積極的に結びつき合う要素はそんなにないような感じがする。詳しく読んだらこの症候群について何かわかったのかもしれないが、今となってはも分からずじまいで、なんだか「マックの女子高生が」的なカテゴリーの、リアリティがあやふやな話として自分の中に残っている。

この症候群の真偽は別として、自動販売機と孤独を結びつけてしまうのは容易なわけだが、しかし、目の前を通っていった墓石じみた自動販売機はむしろ孤独とは逆だった。自動販売機というのは当たり前にそこにあるものだと思いがちだが、やっぱりこういう風にして誰かが運んで誰かが設置して、誰かが飲み物を補充して、そのようにして社会的活動を果たしているわけである。夜中の路上で直立して静かに光を震わせている自動販売機も、その光源を辿れば誰かから授けられたエネルギーがあるのだなあと思う。こういう結論じみたところにたどり着くのが癪なんだけれども、それでも、後ろを向いて運ばれていく自動販売機の姿は、そういうことを思わせる程度には自分にとって珍しい光景だった。

ダイヤルアップと泥の沼:「電気サーカス」

「電気サーカス」という小説を読んだ。90年代、PCが普及しだすと同時にインターネット文化が興り始め、夜な夜なテキストサイトの更新に精を出していた若者たちの青春期。今でこそ、インターネットは才気活発な若者たちが華々しく活躍する場になったけれど、黎明期のネット文化はもっとアングラ感の漂うところで、良くいえばカオス、悪くいえばひどくカオスな環境だった。「電気サーカス」で語られるネット文化というのは、ニコニコ動画Twitter、果てはYoutubeといったメディアが起こるよりもはるかに前の話で、ドラッグとメンヘラと自傷行為と自虐と精神的相互依存との間をテキストサイト、つまり各々が積極的に、勝手に、世界に公開する日記が仲立ちしているような地獄めいたものである。ブログなんて言葉が出る前だから、当然ブロガーなんて言葉もなく、自身の日常を赤裸々に世界へ解き放ち続ける人達なんていうのは、当時の世界観でいえば奇人だった。

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えらいところにきてしまった:ミッドサマー

最高にやばいものを観てしまった。

 

ミッドサマーは「ヘレディタリー/継承」のアリ・アスター監督の最新作。元から「白夜の中のホラー映画」という斬新なコンセプトが気になっていて、予習の意味で観た「ヘレディタリー」が怖いというより面白かったので、ミッドサマーへの期待は嫌が応にも高まっていた。その「ヘレディタリー」は今世紀最恐のホラー映画と評されるようにものすごく完成度が高い作品なのだが、いわゆる普通のホラー映画の枠をもう飛び出してしまっていて、観終わった感想が「怖いものを見た」というより「何か隅々まで隙のないやたらと完成度の高い家族ドラマを観た」という気持ちになる。オカルトホラーの皮を被った、もっと禍々しい何かを指し示す映画で、単純な怖い、という感想に収まりきらない感情の揺さぶられ方だった。

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光線銃

なんだか変な帰り道だった。

帰りの電車が途中で時間調整だがなんだかで止まって、ドアが開いたら外で誰かが光線銃を打ちまくっていた。そういう音がずーっとしていた。子供かなと思ったけど、今は夜だし、ここは駅だしなあと思ったが、電車の座席から首をひねって外を見るのも億劫なのでそのままでいると、開いていた自動ドアがしまった。それでも射撃音は鳴り止まない。なんだろうなと思った矢先にふっと音が消え、ビリビリ震えていた窓が静かになって、四角い光の連続体がその奥を、軌跡を残して流れていった。夜風を切って駆けて行く電車の音が、光線銃の正体だった。しかしまあ、本当にSFっぽい、まさに「ブラスター」らしい音だった。こういうこともあるんだなあと思うまに、遅れてこちらの電車が発進した。

ビュンビュンというブラスターの音は、弓の弦を一定のリズムで弾いているみたいだった。ブラスター音は、イヤホンから流れてくる曲の一週目が終わって、二週目に続くまでのわずかな間隙をぬって聞こえてきたので、そのせいもあって最初は曲の効果音か何かかと錯覚した。あるいはイヤホンが壊れたか。あるいは耳が壊れたか。あんまりにも耳馴染みのない音だったし、突拍子もなかったし、曲に混ぜ込むにはセンスがなさすぎた。電車が外をいく音だとわかれば、これまでの人生ではめちゃくちゃ聞いた音である。実際のブラスター音を聞いた回数よりもはるかに多く耳にしている。

聞こえ方が違ったのは、たぶん、雨が降りそうだったからだろう。帰り道に何人か傘をもって歩いているのを見かけた。ただ、雨が降っているわけでもなければ、雨が降った後もなく、ただ雨の匂いだけがやたらと漂っていたのが変だった。というか、これから降るのかもしれない。

寒いかなと思って外に出たら全然そんなことはない夜で、春っぽいなと思ったが、そういえばまだ2月である。

帰り道には月が出ていて、まん丸ではなく、ボールを見えない拳で強く上から押し付けたみたいな生々しいへこみ方をしていて、内側から熱を持ったみたいに濁ったような黄色をしていた。

雨が降る気配はやっぱりなかった。

なんでもない帰り道だったのだが、なんとなく奇妙だった。覚えておこうと思って記録している。

ネタバレパンチ

月に行くなんていう突拍子も無い願いを抱えたまま死に行こうとする老人に、せめて意識の中だけでもそれが成就したように錯覚させてやろうというのが「To The Moon」の大筋の物語だ。ネタバレは伏せるが良いゲームだった。最近になってSwitchでリリースされたので手に取ったが、元々はもっとずっと前に発売されたゲームだったらしい。ゲームは移り変わりの早いメディアだから、10年近く前となればほとんど古典の域に足を突っ込んでいる。それでも、昔であろうが最近であろうが、良いものは良い。詳細な良さを語るにあたってネタバレが避けて通れないのが残念なところだ。

To The Moonの面白いところは、やりながら大体の展開が予想できることにある。というのも、一時代を席巻した「泣きゲー」の文法を、作為的にか無意識的にか、凄く丁寧になぞっているからで、それは音楽の使い方や登場人物の造形や人間関係や物語を前進させるギミックや、そういった節々に至るまで「それっぽさ」がある。ある種のトレンディードラマのように、視聴者の期待に見合う反応を当意即妙に返してくる感じ。キムタク主演のドラマにキムタクを期待したらやっぱりキムタクだったみたいな例えが浮かんだが、これはちょっと分かりにくいかもしれない。でもつまりはそういうことだ。ちなみに言うとキムタクのキムタクらしさはあれはあれである種の洗練の極致で、だれも真似できないと思うので非常に好きである。

わかる人にはわかると思うのだが、To The Moonは作中に充満した「あるジャンルっぽさ」それ自体がネタバレにあたる「核心」を指し示しているので、「あ、泣きゲーっぽいなこれ」と思った瞬間あらゆる出来事の予想がついてしまう。答えが見えてしまう。つまり、ネタバレされなくても勝手に自分でネタバレを覗いてしまったみたいな気持ちになるのだが、ただ、だからといってそれが感動を損ねるかと言うとそんなことはない。非常に洗練されたお家芸を見ているような気持ちにさせられるのである。

洗練されたものは、それが何であれ、目の前で振り回されることそれ自体に感動してしまうのが人の性分だから、あとから思い返せば割とベタな話だったなあと感じこそすれど、それでもやっぱり素晴らしい作品だったと思えてしまう。手品のネタを事前に明かされるわけでなくとも、なんとなくこうなんだろうなと思ってやっぱりそうだった、でもその手際の鮮やかさに驚かされたし、終わったら拍手してしまう。むしろ、ああ、こういう風に着地するだろうなあ、とつまらない想像をしてしまった自分のつまらなさに辟易しそうになるくらいだ。

だから結局、ネタバレがあろうがなかろうが、つまり話の筋を知っていようがいまいが、予想できようができまいが、優れた演出が大きな口を開けて感情を一飲みにしてしまえば最後、あんまり何も変わらないのだ。知ってたら少しは身構えられたかもしれないというぐらい。現に、まあ思い返せばベタだったなと思いつつ、何度もテーマ曲を聴いてしまう1日だった。拳がくると分かっていて打ちのめされて、そのまましばらく倒れずに起き上がらないでいるというのも、なかなか気分が良いわけで。ほとんどゲーム性のないTo The Moonがゲームだったかは置いておいて、ああ良いゲームをやったな、と、少なくとも凄く良い余韻が今はある。

ドット絵のゲーム

最近遊んだ「198X」というゲームは、80年代の「いつか」を舞台にした物語で、家庭環境に問題がある主人公が町のゲーセンに入り浸り、古き良きアーケード筐体のゲームに入れ込むことで現実とのバランスを取っていくという筋書きだった。たぶん。

たぶん、と曖昧になるのは、このゲームが物語を語るに際して、あまりテキストを用いないからだ。画面を彩る色鮮やかで細かいドット絵はほとんど職人芸の域だし、そんなドット絵で主人公の生活の一端が折に触れて描画されるものの、付随するのはどこか抽象的で詩的、悪く言えば情報量の少ない主人公の独白のみ。高校生であるところの彼が家庭や学校、というか青春生活全般にちょっとした問題を抱えているらしい事はわかるが、具体的にその原因が何かは明かされない。学校でほのかに憧れの眼差しを向ける女子がいることはわかるが、その女子がどんな人格なのかも全く分からないままである。そういった分からないことだらけの物語は、陰鬱で尖った雰囲気の日常風景と、悶々とする主人公をドット絵で描く以上のことはせず、代わりに雄弁に語ろうとするのは、幕間に挟まれる昔懐かしきゲームの方である。というかこっちの方が、この作品の本体なんだろう。80年代に流行った数多のゲームを参考に、シューティングやレース、横スクロールアクションなどそれっぽいゲームをプレイさせられるのだ。

プレイヤーはこれらの時代がかったゲームを通じて、主人公が感じた開放感や悔しさ、疾走感、焦り、未知の世界への興味など、あらゆる感情を追体験させられる。言葉で物を語るのではなく、スティックとボタンでもって思春期の少年の心の揺らぎや苛立ちを体感させられるというのはなかなかに特殊な体験だった。なんてことないレースゲームをやっていたのに、唐突にその疾走感が強くクローズアップされ、そのまま「どこか知らない街へ飛び出してしまいたい」という独白と地続きにつながった時は、おお、と思わされた。当時の人も、こんな気持ちだったのかもしれない。あるいは今でもそういう気持ちでレースゲームのハンドルを握る人が、どこかにきっといるんだろう。

ドット絵がきれいなゲームだった。でも、80年代当時のドット絵がこんなにきれいだったわけがない。もうちょっと荒かったはずだ。それなのに、ここは忠実に再現することなく、むしろ強く鮮やかに描くのは、当時のゲームセンターで初めての世界に触れた人々の感動や衝撃、その目に映り込んだドット絵がどれだけ鮮やかだったかを語りたいがためなんじゃなかろうか。そういう風に思えた。

ドット絵に詳しいわけじゃないので、語るほどの言葉を持ち合わせていないのだけれど、同じようにドット絵系のゲームで「To The Moon」をやった。これはどうもRPGツクールで作り上げたらしく、最初に起動した時の印象はまるで「スーパーファミコン時代のゲーム」だった。見下ろし型の画面で、小さなキャラクターたちが、画面を上下左右に動き回り、相対した人と会話することで物語を進めていく。オールドアンティークな様式といえばそうかもしれない。ところが、実際に始めてみたら、この様式だからこその物語のテンポの良さに引き込まれ、時間が経つごとにどんどん立ち上がってくる物語の筋にのめり込んでしまう。

「月にいきたい」と願う今際の老人の夢を叶える物語だが、なぜ彼が月にいきたいと思うのかは全く謎のまま進むので、これが駆動輪になって物語がぐいぐい進む。3Dでもなんでもないからロードも早い。カメラアングルが変わったりもなく、舞台劇のように見下ろし型であることが変わらないので、ぱっぱっと画面が次へ進む感じが気持ちいい。そこへ伴奏するのは、やっぱりドット絵である。ドット絵だからそんなに顔がはっきり見えるわけでもないし、景色の描写も昨今の3Dのゲームと比べれば全然違う。でも、ある時にはその顔がものすごく複雑な表情を見せるように感じられるし、夜空や月、夕焼けといった景色の描写が3Dのそれ以上に胸に迫って感じられた。当たり前だけど、死ぬ間際に月に行きたいと思う人に、複雑な感情がないわけがない。

不思議な感じだった。「To The Moon」は空想をたくましくさせるゲームだ。なぜこの人は、月へ行きたいと願うのだろう。なにがそうさせたのだろう。どうやって月へ連れて行くのだろう。SF的なギミックやポップカルチャーへのさりげない言及を織り交ぜ、かつ笑いと涙の緩急へ細心の注意を払った物語が、ゆるやかなアクセルでずっと前へ進んでいく。この気持ち良さに、本当にドット絵がよく合う。主人公たちと同じ目で世界を見れないから、少し遠く離れた位置で俯瞰してそれを捉えているから、解像度は現代らしい鮮やかさではないけれど、それ故に頭の中でいろんな景色や表情や声が再構成されていく感じがする。そうやって紐解かれていく「理由」は、ものすごくドラマチックだった。

昔、手塚治虫の「新宝島」の斬新な表現手法を称して「漫画が動いている」と述べた子供がいたそうで、その気持ちが凄くわかった。なるほどこれは動いているし、生きている。どこまでも奥深くて、どこまでも鮮やかだなと思った。