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ダイヤルアップと泥の沼:「電気サーカス」

「電気サーカス」という小説を読んだ。90年代、PCが普及しだすと同時にインターネット文化が興り始め、夜な夜なテキストサイトの更新に精を出していた若者たちの青春期。今でこそ、インターネットは才気活発な若者たちが華々しく活躍する場になったけれど、黎明期のネット文化はもっとアングラ感の漂うところで、良くいえばカオス、悪くいえばひどくカオスな環境だった。「電気サーカス」で語られるネット文化というのは、ニコニコ動画Twitter、果てはYoutubeといったメディアが起こるよりもはるかに前の話で、ドラッグとメンヘラと自傷行為と自虐と精神的相互依存との間をテキストサイト、つまり各々が積極的に、勝手に、世界に公開する日記が仲立ちしているような地獄めいたものである。ブログなんて言葉が出る前だから、当然ブロガーなんて言葉もなく、自身の日常を赤裸々に世界へ解き放ち続ける人達なんていうのは、当時の世界観でいえば奇人だった。

 

主人公の水屋口くんは、小説の冒頭で一家離散を経験し、その足で知人の家に転がり込む。これは、今で言えばシェアハウスではあるが、実態でいえば寄る辺のない人たちが一緒に集まって人生の一時停止をしているような共同生活の場だった。そうしてバイトをしたり、人と出会ったり、薬の錠剤を嚙み潰したり、バイトをしなかったり、人と会わずにゴロゴロしたり、薬の錠剤を嚙み潰したり、行き場のない女の子を保護したり、仕事をばっくれてみたり、薬の錠剤を嚙み潰したり、要するにふらふら、ふわふわしながら日々を過ごす。この小説はそういう話だ。事件らしい事件は起こらない。強いて言えば、この意味のわからない生活自体がひどく低速な事件である。

 

泥濘みたいな環境へ転げ落ち、社会的に浮かんだり沈んだりを繰り返す主人公の放浪記は、こうして小説の形式でもって綺麗な言葉で書き記してしまえば青春小説といえなくもないが、読んでいる最中は現代版「人間失格」のようだった。とにかく水屋口くんは墜落していく。墜落というか堕落である。とはいえ落ちる穴があるわけでなく、家の床にずっと寝転がって徐々に体が床そのものに沈んでいくような、そういう視覚的に爽快感があるわけでもない堕落。そこにリストカット合法ドラッグと病気とネット依存という言葉が散りばめられていく。恋や友情、仕事に分かれ、生と死といった人生の悲喜こもごもが、そうした中に芽生えては消えていく。いろんな人が現れて、消えて、そしてまた現れる。ひょんなことで再開したり、逆にもう二度と会わなかったりする。この感じすごくわかる。

 

 

爽快感があるシーンなんて数えるほどしかない。というか数える程もないかもしれない。しかしこれが酷く目が当てられないかといえばそういうわけではない。ひとえに文章の力が大きいのだと思う。客観的に事実だけ連ねていけば、悲劇と呼ぶには劇的さを欠き、喜劇と呼ぶには笑えないこの物語が、それでもどこかドラマチックに、そして苦笑を誘う出来栄えになってるのは、地獄めぐりの景色を巧妙に紡ぐ洒脱な文体のなせる技だと思う。軽妙で、クールで、シニカルで知的で、それでいてどこか愛嬌もある。タイトルの「サーカス」という言葉は実は劇中でそこまで重要に語られるわけではないのだけれど、次々に現れる同時代を生きた奇人変人たちを紹介しながらくるくると立ち回る主人公、こと水屋口くんの口を借りて語れる文体は、それ自体がピエロのようで、悲しいのにどこか明るくて楽しい。

 

多かれ少なかれ、青春時代というのは綺麗なものだけで形成されているわけではない。「電気サーカス」の主人公がたどるような、昼夜逆転、汚れっぱなしの共同生活、見知った人の少ないイベント、音楽や文庫本、友人と卓を囲んでつつく鍋といった景色に、それぞれを少量の血と泥でつなぎ合わせたような、因果で陰気な側面も多分にあるわけだ。どこかこの小説を読んでいると、非常に身近な誰かの身の上話を聞いているような、つまり現実と地続きにあるどこかの物語であるような、なんだか言葉にしづらいけれどホッと心が温まるような場面が何度も何度もある。夜中に目覚めて置きてしまった時、バイト帰りの坂道、終電が終わって夜が明けるまでの永遠のような時間。そういう、決して「青春」の題名で写真にはならないであろう景色たちの、しかし確かに後々まで余波を残すであろう静かで汚くて穏やかな時間というものが確かにある。そういう景色を見せてくれる小説は好きだ。

 

なんて変な時代だったのだろう、という気持ちに読後はさせられる。水屋口くんの周りはめちゃくちゃだ。水屋口くんもめちゃくちゃだった。死にかけたり、生きかけたりをして、ふらふらふわふわとして一向に前に進まない。しかしなぜだか、この感じがすごく懐かしい。もちろん遠い時代の話ではないが、それでも、知らない世界の話ではないという感じがする。それは多分、誰しもがこういう薄汚い青春のしみったれた残光みたいなものに、ずっと後になって、どこかで勇気付けられる瞬間があったりするからだろう。感傷でも郷愁でもない。くらっとした目眩に似ている残り香。呪いのようにずっとついて回って背中を押すでもなく、引くでもない。変な時代だった、良い時代ではなかった、ずっと調子が悪かった、しかし賑やかで鮮やかで、泣いたり笑ったり落ち込んだりしていた。そういう、いつかの生々しさが詰め込まれたのが「電気サーカス」だった。