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グッバイ呪いたち:「海辺のカフカ」

どうでもいい話だが、ブログの本拠地をFC2からはてなに移行していこうと思う。FC2さん、何年も使い勝手が全く変わらないのは素晴らしいことなのだが、余りに変わらなさすぎて色々と不都合も出てきたので。 

 

村上春樹の「海辺のカフカ」を十何年ぶりに再読した。きっかけは新海誠監督の「すずめの戸締り」で、なぜといえばあの映画の「海辺のカフカっぽさ」にある。旅行や石、猫といった個々のモチーフや、巨大な運命と個人の物語が錯綜する様なんかを観るにつけ、この小説を思い出したのだった。書店で買ってだいたい半年ぐらいかけて読んだのは、一行一行を丹念に耽読したというよりは、単純に時間がなくて飛び飛びの読書になってしまったからだけども。

ともあれ、これが素晴らしい読書体験だった。20年以上前の作品なのに、しっかり今の自分に届く感じがした。 

 

www.shinchosha.co.jp

 

読んだ方の多くが共感するであろうと思うが、「海辺のカフカ」は一見すると訳のわからない物語だと思う。 

 

15歳の少年、田村カフカくん(偽名)が、自身の運命から逃れるために家を飛び出し、様々な人と出会っていく。ここに、猫と話ができる老人ナカタさんの物語が不思議な距離感で伴奏していく。現実と非現実が怪しく重なり合う世界観の中で、二人はそれぞれの運命とでもいうべきものに対峙していく。

簡単に要約するとこういう筋書きの小説だがこれは実に粗い表現だ。こんなにシンプルな箱の中には収まらない。なにせ、訳のわからん理由で猫を殺す殺人鬼は出てくるわ、カーネル・サンダースが夜の街で客引きしているわ、空から突然ヒルの雨が降ってくるわ、登場人物たちが時間は超えるわで論理的に考えながら読んでいったら頭がいくつあっても足りない。まさにフランツ・カフカ的とも言える不条理ばかりが起きるこの小説、そもそも「こういう事が起きて、これはこういう理屈と事情があって、つまりはこういうことだよ」と説明をつけられる事を意図的に拒んでいる節があり、これは小説の一番最後の章の言葉でも滲み出ている。 

 

曰く、「言葉で説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。本当の答えというのはことばにはできないものだから」 

 

一方で技巧を凝らした小説でもある。二つの物語が時にムードやモチーフを共有しながら交互に展開し、緊張感を維持しながら前へ前へと進んでいく構成。村上春樹の文体はまあ色々言われるものはあるけれども、ユーモアと叙情性、衝撃的な暴力描写と静謐で詩的な風景描写、観念的な語りとキャッチーな会話といった相互に距離のある要素を豊かに抱き込みながら破綻させず、堅実な歩みを決して止めない。荒唐無稽な出来事と現実社会のあれこれを滑らかに繋ぐ筆致は例えて言えば「ものすごく真面目な顔をして変なことを言い続けて、それを聞かせる」ようなもので、しっかりと構成しないと読者の興味も簡単に空中分解していきそうなものだが、絶妙に餌を撒いて興味を離さない。そこここに謎を提示してさながらミステリー小説のように読ませたかと思えば、一風変わってはいるもののサスペンス的な逃走劇の顔もするし、ラブストーリーやホラー小説のような味わいも見え隠れする。そして何よりこの小説、時折心をざわつかせるような不穏な場面があったとしても、静かで仄暗く美しいトーンを全編通して保ち続けていく。ただ「意味がわからない」話なのではなくしっかりとした土台の上に成り立っているから、世界観への違和感はあっても最後まで読めてしまう。 

 

とはいえ、この小説中の「なぜ」について、だいたい明確な答えのようなものはない。けど、強いて解釈していこうとするのであれば、この作品で繰り返される「全てはメタファーである」という主張がカギになる。全てはメタファーである。豊富なメタファーで作られた物語は、イコール寓話である。「海辺のカフカ」はテンポの良い文体や現代的な小物の数々で一見食べやすく味付けされているが、その実は寓話なんだと思うとかなりスッキリ読めてくる。 

 

全てはメタファーである。カフカ少年とナカタ老人が奇々怪界の現実と向き合うという構造、それ自体がメタファーでつまりは寓話である。未熟で傷ついた魂をもつ人間が、自身に覆いかぶさってくる運命の奇特性に潰されそうになりながら、身をよじり、時に人の手を借り、そこから這い上がって進もうとしていく寓話である。

異常な父親によって「おまえは父を殺し、母を犯すであろう」というオイディプス神話的な予言、生き方に関する絶対的な呪縛を与えられた少年が、自分が自分であるがゆえの未来の暗さに戸惑いながら、これを呪い返すのではなく、別の方法で「生きる道」を探していく寓話である。

と考えると、これは決して奇譚を数珠つなぎにして趣味の合う読者に限ってを面白おかしくエンターテインするだけの作品ではなく、もっと普遍的で現代的な作品のように読めた。異常な出来事が数多起こる世界観も、突拍子のない出来事が前触れなく起こって人の人生を狂わせていくのは、我々の人生においては見知った話でもあるわけだし、これ自体がまた現実の肌触りを村上春樹流に寓話化したものなのだろう。 

 

読んでいて、カフカ少年には同情もするし共感もする。彼の未来は全然明るくない。お前は、お前の生きる未来はきっとこのようになるという暗い予言を与えられて彼は生きている。晴れの日に大きなコウモリ傘を無理やりつかまされているみたいなものだ。

時に、「海辺のカフカ」が上梓された2002年はそういう時代だった気がする。前年には911とかあったし、未来なんて全然明るくないように思えた。今の時代にその暗さが幾ばくか消えたかといえばそんなことはなく、未来や運命の展望の暗さは、むしろより複雑性と重量感を増しているようにさえ見える。だから、不条理と呪いに足元をすくわれて全然前に進めないカフカ少年の生き様は、全くこの令和の時代においても風化するところがない。というか現実的でない呪いであるが故に、むしろ時代を経ても鋭さを変えずにその暗さが届いてくる。悲しいかな。 

 

村上春樹は、カフカ以前に「アンダーグラウンド」や「約束された場所で」といったオウム真理教事件を丁寧に取材したノンフィクションを二冊書き上げている。それは、巧みに人を呼び寄せ、傷つけ、傷つけ合わせる「暗い物語」の影を浮かび上がらせるような試みだったし、「海辺のカフカ」を挟んだ後、危険な宗教団体を直接的に描く「1Q84」へ昇華されていった。1Q84はよりダイナミックな筆致で、カフカは翻って静謐な筆致ではあれど、本質的には描こうとしていることは変わらない。それは、暗い物語に対抗する、明るい温かい物語を立ち上げていくこと。

この「物語同士の戦い合わせ」みたいなことは折に触れて本人が書いていて、読むたびに「なんか宗教家のような事を言うじゃないか」と思っていたが、改めて作品を読むと言わんとすることはなんとなく分かる気がする。「暗い物語」が具体的に何かというのは人によって無限に解釈が変わると思うが、「傷を癒し、世界の奥行きを知らせ、心を外に開かせていく」ことの反対だ。実際のところ、今の時代状況を見渡せば、陰謀論やらSNSの炎上やら、同じ言語で紡がれていてもどうにも心を閉じさせていく言葉の数々というのはある。そういう中にあってなお、この小説における「暗い呪いから救われていく」過程にはシンプルに心を打つものがあった。 

 

カフカ少年は旅先で様々な人に出会う。それは自身を温かく迎え入れてくれる(姉のような)サクラであったり、世界の見方を提示してその複雑さを乗りこなす術を教えてくれる、気品に満ちて博学な大島さんだったり、ミステリアスでどこか悲しそうな影を背負う佐伯さんだったり。カフカ少年の旅路にリンクしながら不思議な旅を始めるナカタ老人も、行く先々で様々な人に出会う。彼らとの出会いと対話の場面はこの小説の大きな魅力であり核の一つで、生き生きとしていて示唆に富んでいるし、時にユーモアを交えながらも読後に内省を促すような落ち着きがある。意義深い会話がそうであるように、何か人生の秘密のようなものをささやかに掴ませてくれるような気さえする。どれも魅力的な人間たちで、彼らとの会話の場面は、主人公二人にかけられた暗い呪いに対して確かな防御壁を一枚一枚重ねていくようなものだ。 

 

彼らとの交流を糧に、カフカ少年は自身にかけられた呪い、自身に向けられた「暗い物語」と、我々読者に成り代わって戦っている。 我々はカフカ少年を自身のメタファーとして読み、彼の悲劇的な歩みを注視する。運命の形を定義することは誰にもできないし、よしんばそれを描写することもできないが、しかし複雑怪奇な世界を歩む人間の姿に自身の姿を重ねて、自身の血肉に変えていくことはできる。作中でナカタ老人と共に旅をするホシノ青年が、ベートーヴェンの「大公トリオ」を聞いたり映画を見たりしてそれまでの自身の器をより広く深く更新していくように。 

 

ちなみに、この小説の構造を説明するガイド役とでも言うべき大島さんもこう言っている。 

 

「しかしながらアイロニーが人を深め、大きくする。それがより高い次元の救いへの入り口になる。そこに普遍的な希望を見いだすこともできる。(中略)世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺して母親と交わるわけではない。そうだね?つまり僕らはメタファーという装置を通してアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる」 

 

読者はカフカ少年というメタファーを通じて物語に触れ、そのことで自らを深め広げていくことができる。

 

海辺のカフカ」は良き・悪しき物語の作用についての物語でもある。同時に、影のある人生や現実をどう読むか、運命へのより良い解釈を勧める物語でもある。読んでいると、暗い背景の上に何か明るい答えのようなものがぼんやり像を結びかけては消え、消えては現れる。明示的に言葉にはされないものの、確かに何かが掴めてくる。そんな感じがある。それがとても良い体験だった。その答えの曖昧だが確かな感じは、読書というより良い音楽を聴いている時のそれに近かった。

本当の答えというのは言葉にできないと告げたカフカ少年は、しかし最終章では、数々の体験の後に、自身の現実を生きるための姿勢を確実に身につけている。読者にはそれが分かる。技術や信条というのとも違うもっとぼんやりした何かだが、我々と同じく、明るい何かを身のうちに抱きながら静かに物語を去っていくことが分かる。「そして目覚めた時、君は新しい世界の一部になっている」というラストの一文が、また良い味を残して終わる。あれは多分、物語を渡り終えた読者に向けても書かれている。