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青い心霊写真

心霊写真がすごく苦手だ。心霊動画や、ホラー映画や、ホラー小説はそんなに抵抗感がないのだけれど、昔から心霊写真がすごく苦手である。ただ、なぜ苦手なのかを言語化しようとすると、言葉につまる。

もちろん、十年以上前のゴールデンタイムに放送されていた「アンビリバボー」の影響は否定できない。一家団欒のピークタイムに、これでもかと言わんばかりに恐怖映像と心霊写真をだだ流ししていた伝説の番組も、今はすっかり恐怖番組としては大人しくなってしまったが、あの時間帯は一定の世代の人格形成に少なからず影響を及ぼしたはずだ。おそらくは、さらに遡ること数年前の子供達が、スプーン曲げのロマンに惚れ込んだのと同じように。だから、アンビリバボーのせい、と言い切ることもできるんだけれども、それだけでは説明できないような気がする。

なぜ心霊写真が怖いのか。アンビリバボーを抜かして考えると、なかなかぱっと浮かばないのだけれど、「止まっているから」かもしれない。

映像は常に動いているし、小説も、表現を変えれば文字が流れている。だからどちらも動的な感じがする。動的な中に得体の知れないものが混じっていることに怖さの一因があるんだろうし、映像なんかは特にそうだろう。写真は動的ではない。時間が止まっている感じがする。1日の時間の流れの中で滑らかに動く日常を、ぶちっと切り取って止まっている。よく考えればそのこと自体が怖い。停止した日常という異質なものの中に、更に心霊という異質なものが紛れ込んでいる。それが一枚の中に綺麗に収まってしまっているから、二つの異質性の間にはあまり隔たりはなく、だからこそ、日常そのものが異質であると言われたような気持ちになる。自分の周りに流れている日常が本当は異常であると示されるのは、庭に転がった綺麗な石をひっくり返して見たらびっしり虫が張り付いていたような、そんな骨身にくる怖さがある。そういう恐怖はめちゃくちゃ心に焼き付いてしまう。

モノクロであってもカラーであっても怖いものは怖いのだが、モノクロの方は何かまた別の怖さがある。モノクロ写真を見ていると、歴史的なものへの畏怖の念みたいなものが、自然に沸き起こってくる。というか心霊だろうがなかろうが、モノクロ写真にはどこかそういう怖さがある。歴史は自分に影響を与える一方で、自分は過去に干渉ができない。そういう一方的な、語られっぱなしのまま身動きが取れなくなるような怖さを、モノクロ写真の寒々とした陰影に感じることがある。

昼間に外へ出たら、雲ひとつない空で、柔らかい青色だったのだが、鳥も飛ばず、飛行機も横切らず、なんだかぴたっと止まっているみたいだった。こういう空は、地上と比べて時間の流れが全然違う感じがする。ぼんやりしていて写真っぽかった。

色のせいというのは大きいわけで、心霊写真が柔らかい青だったらどうだろうかと思う。

見たことはないけど、たぶん、気持ち悪い。