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強制的な夏

Apple Musicで久石譲のSummerを検索すると、ちょうどこれから発売するアルバムのものが先行配信で聞くことができて、その結果、心が絶叫した。ずいぶん久しぶりに聞いたんだけれども、最初に聞いた時より、そして何年か時を経て聞いた時よりもずっと強力な音色になっているような感じがした。アレンジの力なのかもわからんが、最初に思い出したのは「菊次郎の夏」のことで、そこから先はただただあらゆる「夏」のことを思い出した。

菊次郎の夏」は良い映画だし、好きなんだけれども、何が好きかと言われると答えに困るタイプの作品で、それはあの映画に漂う漫談的な空気感のせいかもしれない。ダラダラとまとまりなく続きながらもなんとなくまとまっているように思えてしまう。まるで、雑然とした色々な出来事や感情や記憶が、時を経て一歩引いて観たときに、全てまとまって構成された一枚の絵のように見えてしまう、あの感じに近い。菊次郎の夏も、観た直後にすごく感動したという覚えはなかった。後から思い返すにつけ、あのSummerの旋律に導かれるようにして、色々な感情がまとまっていって綺麗に見えてきたのだ。あとになってじわじわきた。あの映画の中で、Summerは、わたあめをぐるぐるかき回す棒みたいだと思った。棒にからめとられる雲みたいな砂糖、映画の色々な出来事、それ自体は漠然としているんだけれども、Summerの棒にまとわりついて、ようやく広く大きく形をとる感じ。そういうわけで菊次郎の夏についての思い出は、主にSummerが占めてしまう。北野武が最近になって久石譲と絡まなくなったのは、もしかしたらそういう、印象をめちゃくちゃ牽引されてしまうせいかもしれないなと思った。もちろん、真相は知らない。

Summerの旋律を聴いて強制的に夏の美しさを思い出したわけだが、よく考えてみれば全ての夏がそんなに美しく激しい冒険に満ちていたわけでも、輝かしい不思議に満ちていたわけでも、血と太陽とアスファルトの距離が限りなく等しく感じられるくらいにドラマチックだったわけでも、ない。というかそういうことは全然ない。夏という言葉によって思い出が半ば強制的に美化されているだけであって、ただただクソ暑いだけだった可能性の方がはるかに高い。

それでもなぜか「夏」という言葉にはロマンがある。夏の幽霊と書けばなんだかドラマチックな感じがするし、なんならそこに生と死の垣根を超えた感傷とかひと匙の青春の色すらありそうに思えるが、冬の幽霊と書くとただただガチに怖がらせにくる感じしかしない。夏の自動販売機と書けばそこには同級生の賑やかな声と蝉時雨が混ざり合う、明るく晴れやかな日中の絵が浮かぶのに、冬の自動販売機と書くと妙に寂しくて寒々しい。季語とは不思議なもので、頭につけるだけで随分と印象が持っていかれる。

そういうことを考えながら、冬と春の県境を走っているような夜の電車の箱に揺られて、駅にも、「夏の」とつければ、夜でも随分とドラマチックになるなあなんていう、特に根拠も何もないことを考えていた。白いワンピースの少女が麦わら帽子をかぶってひまわり畑の向こうに消えた、なんていう景色を、この現代日本で誰が実際に経験したことがあるのだろう。たぶんきっと無い。無いんだけれども、まるでそれは、かき氷の屋台やコンクリートの蜃気楼みたいに当たり前の存在みたいに語られることがある。きっとグレイ型宇宙人や大気圏を光って落ちていく隕石と同じぐらいの希少性なのに、そういうものとの距離感がめちゃくちゃ近く感じさせるから、夏は恐ろしい。夏という言葉、景色、音楽あるいは全ての夏らしいものは恐ろしい。あるものとないものとの遠近感がめちゃくちゃになる。あるはずのない夏が、夏という言葉に誘われて、そこら中にある。そういうところが好きだなと、冬の夜の駅を見ていた。