ひょんなことから昔書いた小説を読み直す機会があった。
もう結構前のもので、大学生の時に書いたものだった。
読み返すと色々な発見がある。今だったらこういう表現はしないだろうなとか、この表現は今は容易に思い浮かばないな、とか。昔は気に入っていたテーマが今では全然そう感じないこともあるし、その逆もある。今の自分と思考回路というか、例えて言えばOSのバージョンが違うような感じを受ける。OSが進化したのか、別物にすげ変わったのか。良し悪しはわからないけれど。
ただ、色々読んでいて共通して感じたことが、「時間の流れ方が今と違う」ということだった。
なんというか、学生時代に作ったものは独自の、ゆったりとした時間の流れの中にある。一つの場面にしっかりと焦点が当たって、目の前を流れる物事に対してどんどんズームインして解像度を上げに行こうとしている感じが見て取れる。それが時折しつこいぐらい。
それぐらい、時間というものがゆっくりと流れているし、目の前の世界に集中している。他の雑事がない、余裕があるとも言える。ゆとりとも言える。目の前以外に気にするところがない感じ。もっぱらモラトリアム的であるとも言える。
この時間の感覚を今は持っていない。社会人になってから書いたものと読み比べてみると、明らかに時間の流れ方が違う。
社会人時代は、一つの作品の箱の中に、たくさんの種類の物事を細切れにして詰め込もうとしているような感じがある。一つの場面にじっくりと、座して向き合う余裕がある感じではない。色々な場面を忙しなく並べ立てて一つの場面として見せようとしている感じがあった。
それは仕事をしていて感じる体感的な時間感覚に似ている。モラトリアム的学生の8時間と社会人の8時間とでは、目の前を飛びすぎていく物事の数も種類も明らかに異なっている。社会人の方が当然忙しない。
昔は多分、一つの場面や出来事にもっとじっくりと向き合う時間と、心の余裕とがあったのだろうと思った。
今、そういう物を書こうという感じが起きないのは、やっぱり自分の中の時間感覚が昔のそれより1.5倍速だか2倍速ぐらいになっているのだろう。
でも一方で、1.0倍速の世界をちゃんと持っていないと、大事な物事をしれっと見逃しそうな気もする。
写真を撮るようにして日常に向き合うOSをきちんと持たないことには、2倍速の世界に巻き込まれて、そのままチャキチャキと、悲しく溌剌と、過ごしてしまうような気がする。
これは恐怖だな、と思ったので書き記している。
逆に言えば、物を作ったり、書いたり、撮ったり、描いたり、まあなんでもいいけど自分主体で行う創造的な行為は、自分の中の体感時間をなんとか、日常の忙しなさに逆流させて保つような行為なのかもしれないと思った。水の流れに竿を刺すみたいに。
そんなことを考えていたら、ふと思い出したことがあった。
昔、物を書くときは大体が夜中だった。夜中に小腹が空いたとき、よく夜道を歩いて近所のコンビニに行った。暗い街中に一軒だけ煌々と明かりの灯るセブンイレブンで、そこで売っているクリームパンが絶品だった。静かな夜中にそういう、やたらと甘い物を食べながら物を書いていた。
コンビニ商品だからそこでしか売っていない訳がないのだが、そこでしか買った記憶がない。
いつしかそのクリームパンは無くなってしまった。同じ商品名のものは今も並んでいるが、あの時のそれではない。
そういう小さいことを、2倍速の世界にいるとどんどん忘れそうな気がしている。