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飴と爆弾:劇場版チェンソーマン レゼ篇

すごいものを観た、と思いながら劇場を出る足がふらついた。

そして街を放心状態でぶらぶら歩いて、また再び劇場へ戻って、次の回のチケットを買った。

チェンソーマンの、別に大ファンではない。一応、原作の第一部はなんとなくで読んでいたが、アニメは1、2話ぐらいで止めてしまった。レゼ篇も読んだはずなのに、内容は殆ど覚えていなかった。アニメ総集編の評判が良くて、これもなんとなく観たら面白かったのと、米津玄師と宇多田ヒカル上田麗奈の名前に釣られて、なんとなくで足を運んだわけだ。

逆に言えば「チェンソーマン」がどんな雰囲気なのかも、そのアニメ版がどういう感じなのかも、ある程度予見できている状態で、その上で軽い気持ちで観に行った。

そしたら、なんかもう、別格の体験だった。

7月に鬼滅の刃の無限城篇が出たばかりなのに。日本のアニメ業界はトップ層で殴り合いでもしているのか? 

 

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控えめな言葉を捨てるなら、この映画、奇跡みたいな映画だと思う。

レゼ篇はボーイミーツガールの物語で、抒情的で甘酸っぱく、しかしチェンソーマンらしく残酷で大胆で暴力的でぶっ飛んでいる。つまり静かで穏やかなドラマと、激しく騒々しいアクションが共存している。そういう映画は往々にしてある。でも、そういう映画の殆どが、ドラマとアクション、静と動を行ったり来たりする。映画の不文律的に、長い時間の中に動きのある「見せ場」を定期的に差し挟む事で、まるで吸って吐く呼吸のように、リズムとテンションを維持する。戦闘シーンの合間に場面が変わったり、回想が入ったり。それは映画のテンションを保つ上でも、観客の集中を保つ意味でも必要なことだったのだろう。

ところがこの映画に限ってはそういう作り方をしない。

本当に信じられないことに、中盤以降、ずーっとギアがフルに入りっぱなしで「ついてこられるやつだけついて来い」と言わんばかりの大立ち回りの連続、息継ぎの間をまるで与えないで最後まで全速力で突っ走る。レゼとデンジの淡い日常の時間と、頭のネジが吹っ飛んだような大活劇が良い意味でお互いを完全に無視するような存在感で並び立っている。

ノローグ?知るかそんなもん、とでも言わんばかりに。

アニメーターの手の動き、滴るインクの一滴さえも余すことなく画面に写し取ろうとするような、貪欲で暴力的な作画。まあ、もう魅せる魅せる。一瞬たりとも幕間を挟まず、絵と音の力で殴り続けてくる。

大活劇は青春の瞬間を再び手に取って参照するようなことをしない。「あの時」を思い返すような回想も一切入らない。全くギアを緩めることがない。鬼滅の刃とは真逆の作りで(当然、どちらが良いという話ではない)、そろそろここで一呼吸置くかなと思ったら全くそんなことをしない。ビームではないが、「最高最高最高」を畳み掛けるテンションでずっと疾走する。文字通り疾走する。

それなのに、数多の爆発が街を破壊しながら夜空に焼き付ける色彩、拳と拳の激闘が切なく見える時がある。音楽も映像も真正面から「アクション」を描いているのに、血湧き肉躍る大爆発の向こうに前半の穏やかな時間がチラついてくる。目に入る映画とは別に、頭の中に違う映画が描かれるみたいに。

いやほんと、なんでこのバランス感で成立してるんだ?と冷静になると怖くなってくる。全く異なる種類の2つの映画が共存している。

ところで、「異なるもの同士」という要素それ自体が、この映画においてとても大事だったりする。人間と悪魔、都会のネズミと田舎のネズミ、デンジとレゼ。

 

異なるもの同士といえば、この映画はずっと、描かれるものとは違う位相を裏側に控えさせている感じがする。アクションの裏側に、爆発の粉塵に隠れたドラマがある。レゼが見せる笑顔の裏側には語られない時間と言葉がある。マキマの言動には未だ描かれない思惑がある。そういう二面性的な構造がチラチラと目に映る中にあって、時折、画面を過ぎる「素直な、嘘のない優しさ」がすごく大事にされている。

デンジとレゼの2人の物語には存在感を譲るものの、アキと天使の悪魔のパートナーシップも印象的に、まるで映画のテーマの補助線のように描かれている。お互いに理解し合うことなく、牽制し合う2人が、ある瞬間に本音をむき出しにする。そこで描かれるのは、この映画が表面的に描き続ける「残酷さ」とは全く逆の感情だ。

この映画は表立ってはグロテスクで非情、言い換えれば激しく暴力的だが、その裏側にある静かで優しい感情こそが本体だと思う。

殆ど直接的に描かれない「優しさ」が胸にくる。そしてそれは場面での演出以上に、声優陣の演技でもって描かれる部分もとても大きい。1人のこらず全員良かったのだけど、特にレゼ役の上田麗奈は幾つもの顔を持つキャラクターを見事に一つの人格に束ねて見せた上、その演技で最大限の助走をつけてEDの宇多田ヒカルと米津玄師のデュエットへ感傷のバトンを繋いだと言っても過言じゃないはず。大拍手。

 

ここまで核心的なネタバレを避けて書いてきているつもりだけど、本当に良い場面、演出、動き、感情ばかりに満ちた映画で、爽快感と喪失感、開放感と虚無感、疾走感と閉塞感といった相反する感情が絡みながら波状攻撃をかけてくる映画をなかなかここ最近観ていなかった。

一個だけ直接的に映画の場面に触れるなら、祭りの夜の飴と花火の場面が好きだ。あの瞬間を中心に映画が折りたたまれて、美しい甘い色合いの飴と鮮やかな花火が、別の意味合いに転換して、異なる位相に落下していくような感じがする。

映画のギアが変わる瞬間。2回みてもあの流れはゾワっとする。

同時に、そこには映画を見ることの根源的な喜びのようなものが確かにあった。知らないところへ、どこかへ持って行かれる。有無を言わさない勢いがある。圧倒的で、楽しい。